ニュース・日記
最近は、語られることが少なくなったけれど、
昨日4月1日はエイプリル・フールだった。
その起源って、なんなのかなぁ。
たぶん、西洋発だから、
やっぱりキリスト教に関係しているのだろうか。
小さな、罪のない嘘をつきましたか?
嘘をつくことは、あまり正しい行為とは認定されない。
僕はモラリストではないから、
とりあえずだけど、自分のなした事柄のせいで、
悲しむ人がいなければ、あるいは、
そのことで他者に迷惑がかからなければ、
たいていのことはほどほどに結果オーライの人間だ。
だからだろうか、次のようなことを考えてしまいます。
たぶん、人は、
正しいことばかりをして生きているわけじゃない。
時には、正しくないことをしないことには、
世界がうまく見えてこないこともある、と。
僕だって、いくつも正しくないことをしてきた、間違いなくね。
でも、そうしないわけにはいかなかったと思う。
そのいくつかは、
すでに時間の暗闇の向こう側に消えている。
そのことで、ときどき、
ひとり胸を痛めることもあります。でも、
そして、それが、(たぶんだけど)人間なんだとも思うのです。
これは言い訳でも、開き直りでも、自己卑下でも、韜晦でもない。
とはいうものの、人生というものは、
負けるに決まっているゲームを戦っているようなものだから、
とりあえず、生きていくことが大事なんじゃないかなぁ。
いい空気を吸って、美味しいものを食べて、身体を動かして、
服を買って、ときどきは遠いところに行って、
明るく前向きに考えることだ。
だいたい、人生というものはシリアスに生成されるものだから、
考え過ぎちゃうとロクなことはないんだよね。
アーネスト・ヘミングウェイは、
「優れた投手は、スコア・ボードを見て配給を考えない」
と言ったと聞いたことがある。
たぶん、そういうことだろうと思う。
『武玉川』だったと思うけれど、
「うそがきらひで顔がさびしい」
という句がある。
これも近くないですか?
「嘘」で、思うんだけど、そして唐突だけど、
戦後民主主義は、幻想に過ぎない。(唐突ですねぇ)
だけど、たぶん誰だってそう思ってきたんじゃないかと思う。
素朴にそれを信じて来たのは、真面目で、
少しばかり愚かな、ひとにぎりの教師たち。だから、
彼らは生徒に民主主義の素晴らしさを教室で伝えました。
でも、そのシステムそのものは虚構なんです、きっと。
民主主義ってそんなに素晴らしいものじゃない。
今の政治状況を見ただけでもそれが分かる。
ただ、戦後民主主義を支えた来た人々は、
虚構、あるいは幻想と知りながら、
それに命を懸けてきたのではないかと思うのです。
1945年から1970年代の終わりくらいまで、
社会の中核にいたのは戦争を知っている人たちなわけでしょ?
極限状態の中で、人がどれほどエゴイストになるものか、
指揮官が責任を取らなければどれほどの災禍を人にもたらすか、
戦場や、空襲で家族や恋人や友達をどれほど失ったか。
自分自身でさえも、
心ならずも戦場で人を殺した経験があったかもしれない。
そういう人々が、とりあえず、
それが虚構だと認識していていながも、
後に続く世代には同じ思いをさせたくないという
強い意志が作り出した幻想なのではないかなぁ。
言わば、強烈なリアリズムが造型した幻想ですね。
このところ、その幻想が潰えようとしている。
ゆっくりと時間をかけて、明るい瞳で新しい言葉が語られる。
先日、ある学者がインタビューに答えて言っていた。
「戦前と同じだって言ってますが、なにより時代が違うんですから」
彼はたぶん、間違っている。
時代は違っても人の心は変わらないということを知らない。
表紙は違っても心してページをめくると中身は同じだって。
昨日4月1日はエイプリル・フールだった。
その起源って、なんなのかなぁ。
たぶん、西洋発だから、
やっぱりキリスト教に関係しているのだろうか。
小さな、罪のない嘘をつきましたか?
嘘をつくことは、あまり正しい行為とは認定されない。
僕はモラリストではないから、
とりあえずだけど、自分のなした事柄のせいで、
悲しむ人がいなければ、あるいは、
そのことで他者に迷惑がかからなければ、
たいていのことはほどほどに結果オーライの人間だ。
だからだろうか、次のようなことを考えてしまいます。
たぶん、人は、
正しいことばかりをして生きているわけじゃない。
時には、正しくないことをしないことには、
世界がうまく見えてこないこともある、と。
僕だって、いくつも正しくないことをしてきた、間違いなくね。
でも、そうしないわけにはいかなかったと思う。
そのいくつかは、
すでに時間の暗闇の向こう側に消えている。
そのことで、ときどき、
ひとり胸を痛めることもあります。でも、
そして、それが、(たぶんだけど)人間なんだとも思うのです。
これは言い訳でも、開き直りでも、自己卑下でも、韜晦でもない。
とはいうものの、人生というものは、
負けるに決まっているゲームを戦っているようなものだから、
とりあえず、生きていくことが大事なんじゃないかなぁ。
いい空気を吸って、美味しいものを食べて、身体を動かして、
服を買って、ときどきは遠いところに行って、
明るく前向きに考えることだ。
だいたい、人生というものはシリアスに生成されるものだから、
考え過ぎちゃうとロクなことはないんだよね。
アーネスト・ヘミングウェイは、
「優れた投手は、スコア・ボードを見て配給を考えない」
と言ったと聞いたことがある。
たぶん、そういうことだろうと思う。
『武玉川』だったと思うけれど、
「うそがきらひで顔がさびしい」
という句がある。
これも近くないですか?
「嘘」で、思うんだけど、そして唐突だけど、
戦後民主主義は、幻想に過ぎない。(唐突ですねぇ)
だけど、たぶん誰だってそう思ってきたんじゃないかと思う。
素朴にそれを信じて来たのは、真面目で、
少しばかり愚かな、ひとにぎりの教師たち。だから、
彼らは生徒に民主主義の素晴らしさを教室で伝えました。
でも、そのシステムそのものは虚構なんです、きっと。
民主主義ってそんなに素晴らしいものじゃない。
今の政治状況を見ただけでもそれが分かる。
ただ、戦後民主主義を支えた来た人々は、
虚構、あるいは幻想と知りながら、
それに命を懸けてきたのではないかと思うのです。
1945年から1970年代の終わりくらいまで、
社会の中核にいたのは戦争を知っている人たちなわけでしょ?
極限状態の中で、人がどれほどエゴイストになるものか、
指揮官が責任を取らなければどれほどの災禍を人にもたらすか、
戦場や、空襲で家族や恋人や友達をどれほど失ったか。
自分自身でさえも、
心ならずも戦場で人を殺した経験があったかもしれない。
そういう人々が、とりあえず、
それが虚構だと認識していていながも、
後に続く世代には同じ思いをさせたくないという
強い意志が作り出した幻想なのではないかなぁ。
言わば、強烈なリアリズムが造型した幻想ですね。
このところ、その幻想が潰えようとしている。
ゆっくりと時間をかけて、明るい瞳で新しい言葉が語られる。
先日、ある学者がインタビューに答えて言っていた。
「戦前と同じだって言ってますが、なにより時代が違うんですから」
彼はたぶん、間違っている。
時代は違っても人の心は変わらないということを知らない。
表紙は違っても心してページをめくると中身は同じだって。