ニュース・日記

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風通信198

2020/08/13(Thu)
風通信 |
 いきなりプラトンの話です。素材は『パイドロス』ね。有名な文字批判です。もちろん、プラトンの著作だけど、ソクラテスの言葉を残している。ソクラテス自身は書き言葉を残さなかった。なぜかというと、話し言葉を信じていたからです。
 もう少し、詳しく話しておこうか。
どうやら、ソクラテスもプラトンも言葉というのは、話されたり書かれたりする以前にすでに存在していると考えていたんじゃないかと思う。その言葉が表出されるベクトルが書き言葉と話し言葉です。もちろん、この二つは同じものだから、共に人々の心の中に語りかけられ、育ち、心を太らせもするし、例えば真偽不明の情報を表層にだけ垂れ流しつづけるだけで心の中に止まらないこともある。繰り返すけど、そうした正反対の要素は書き言葉にも話し言葉にもある。ただしね、ここが重要なんだけど、ソクラテスは話し言葉のベクトルの方がより前者の在り方を保持していると言っているんじゃないかと思うんだよね。プラトンは偉いところはそのことを十分認識していながら不朽の言葉として書き言葉に残した。おそらく師に対する永遠の崇敬を込めてね。
 紀元前370年頃の話だけど、ソクラテスの想念は予言めいていると思いませんか。「書かれた言葉」の生む厄難はネット社会に生きている僕らには日常的に見聞する。ネットにおける誹謗や中傷の記事は枚挙に暇がないし、増幅される不信や憎悪は目を覆うばかりだ。先日の話、青森県に東京から帰省した男性の自宅に、「こんな時期になぜ帰ってくるのか。いい年をして何を考えているのか。近所には高齢者も幼児もいるのに・・・云々」というペーパーが投げ込まれたというニュースがあった。書いた人物のやむにやまれぬ心情は一応は理解できる。そういう人もいるかもしれない。(実際にいたけどね)しかしそれを書き言葉に残し、対象たる人物の玄関先に投げ入れるという心情はどうにも理解できない。まあ、これなんかも、書き言葉の弊害なのではないかと思うわけです。あるいは想像力の問題かもしれないけどね。
 芝居の言葉は書かれたものなんだが、話し言葉を想定している書き言葉です。今回の芝居では、作家の書き下ろした台詞はいわゆる標準語じゃない。博多弁です。『タンドリーチキンの朝』も『アイランドキッチンの昼下がり』も『ロングカーディガンの夜』も、すべて。なぜ博多弁で書いたのかはあえて聞かなかった。で、書き言葉だけど話し言葉なのね。だから、言葉が自分(同時に相手)に届き、自分(同時に相手)の中で想いが成長するようになってほしいのさ。それを目指しているというか。
 ジャン・コクトーのひとり芝居『声』のアイテムは、書かれた当時珍しかった電話です。混線という状況を上手に利用した作品だ。今回の三作も、電話がキーアイテムだけど、ま、混線はないわな。電話といってもネットがらみです。語られた言葉が相手にどんなふうに届くのか、自分の中にどんなふうに響くのかが、なかなか難しい。そして同時に難しいのが、身体。もし、古代の哲学者たちが考えていたように、言葉が発せられる前に存在しているとしたら、言葉が語られるとき、身体の所作はどうなるのだろうか。そして、コロナ対策として上下(かみしも)前奥(まえおく)二間(にけん)強のステージでの動線はどうする? 役者との二人三脚が続きます。本番まで。
 ケータイといえば、必要に迫られてLINEをはじめた。設定からなにから、すべて制作部にお任せ。使ってみると案外便利なことが分かった。もっとも単純な連絡以外は使ったことがないんだけどさ。
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風通信197

2020/08/09(Sun)
風通信 |
「ウイズ・コロナ」・・・思うんだけど、違うんじゃないか。いや、確かにそういうスタンスじゃないと今の現状は乗り切れないことは分かるよ。でもさ、なんだか、この言葉には違和感が残る。君はどうですか?
 僕らは報道にしたがって「感染症」と言ってるけど、要は昔から言われている疫病や伝染病なんだよね。歴史学的に見て、それが人類の社会に与えた影響は大きい。ある文明はマラリア原虫のために衰退したし、ある軍隊は極微のコレラ菌や赤痢菌のために壊滅した。中世末期ヨーロッパをおそったペストは近代を開く陣痛となったろ? だって文明世界全体で7千万人もの死者が出れば、古い観念や宗教の権威を失わせるというパラダイムシフトが起こって当然だからね。

 と、ここまでは前説でさ。前便の続きです。

 「ライブ感」こそ演劇の醍醐味だと思う。その意味で安易なリモート演劇(あ、もちろんリモート演劇そのものが安易と言っているわけじゃない)なんて僕らは拒否すべきだろうと思う。もし、リモートで演劇を配信したいなら、照明や音響や装置や、そもそも「本」のコンテンツまで考えたものでなくちゃいけないんじゃないかねぇ。それに十分な時間と入念な設計図もなくこんな時代だからリモートで芝居を、などと発想するのが安易ということで、それでは演劇の根本を見失うことになるはずなんだ。安易さに流れてはいけない。
 
 では、どうすればいいのか? 答えはいたって簡単だ。

 考え得るかぎりの知恵を絞ってコロナと戦い、舞台を創ることだ。感染のリスクがあるなら、できる限り感染を回避できるような舞台を創る。だから、確かにコロナは存在するし、僕らはその恐怖を感じながら日々を生きているから「ウイズ」なんだろうけど、なんかさ、「ウイズ」と言われると、共に生きていこうとか、存ることを前提としてうまく付き合おうとか、そんな発想のような気がするから、違和感があるんだよな。少し分かってくれる? 僕は戦うことが大切だと思う。そこでもし倒れても、生き残った人間がきっと新しい何かを作ってくれると信じているからね。
 歴史上、どのような劣悪な環境でも悲惨な情況でも、人間はまずもって演劇から始めた。なぜなら、そこにひとりの人間がいて、彼(もしくは彼女)が言葉を発すれば、そこに芝居が現出するわけだから。ピーター・ブルックが言ってたよね、「何もない空間」です。そこで芝居がはじまる。前便でも言ったけど。
 ひとりひとりの生命は確かにかけがえのない大切なものです。でも、思うんだよな。たとえ誰かが(もちろん僕が)倒れても、誰かが新しい時代を創ってくれると。その誰かが倒れてもまた違う誰かがいる。人類はそうやって生き延びてきたんだし。新しい価値の創造、パラダイムシフトとはつまり「世代交代」の言い換えなんだから、新しい時代の演劇を創ってくれると信じられる。そう思うとね、今、僕らはコロナと戦い、ライブ感を持つ「演劇」を創ることがとても大事なことのように思えてくる。そのためにも、舞台を作り続けていくべきなんだろう。

 まっ、たまたまね、今回の舞台は「ひとり芝居」の3本立てだから? コロナ対策のいくつかは回避できそうです。偶然とは言いながら。コロナ対策を逆手にとって、バンドの在り方もよりよい見立てが出来そうだ。今週はバンド関係の打ち合わせ。バンドチームと話して、音響担当のM譲と会います。
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風通信196

2020/08/08(Sat)
風通信 |
今週は、照明を頼んでいるA君と打ち合わせをしたよ。パピヨンガーデンにあるコメダ珈琲は、具体的な客席の措置はなされていなかったけれど適度な人数だったな。客席毎のビニールシールドはあってもいいかなと思った次第。まあ、それはいいさ。
 開口一番、彼の口から出て来たのは「演劇はこんなに必要とされていないんですね」という言葉だった。この言葉だけだと意味が分からない、よね? でも、彼が言いたいのはおそらくこういうことじゃないかと思うんだ。ちょっと僕なりの注釈をしてみようか。間違ってたら、ごめんね。
 彼のいう演劇とは「ライブ感」じゃないかと思うんだな。映画やTVの芸術性は認めた上で、それでも演劇にしかないのは生身の人間が全身で舞台に立って演劇をするというライブ感だと思うんだ。図らずも、昨日の稽古でね、有定(女優です)に向かって僕は、正確には覚えていないんだけど、こんな言葉を言ったんです。「いいか、言葉は不自由なものだ。言葉では想いの何十分の一くらいしか伝えられない。だから、そのことを分かった上で演技をすること。人は全身で話していると思った方がいい。だから、君の一挙手一投足がすべて言葉。舞台でお客さんは君の全身をみている。台本は書かれた言葉だ。だけどそれを君が生きた言葉にする。言葉を身体が裏切ってはいけない」こう書くと、なんだか自分のその時の想いがうまく伝わらない気がするなぁ。稽古のときは、想いも、意味内容も成立しているはずだけれどね。まあ、こんなふうに、よくしゃべっています、稽古では。有定さん、五月蠅くてごめんね。
 役者が舞台で生身を曝して演技するというギリギリの情況は演劇でしか味わえないライブ感じゃないかと思うんだ。A君が言った言葉を僕なりの解釈すると、昨日有定に話した言葉と同期すると思うわけ。つまり、そこにひとりの人間が立っていて、「あ」と言う。次に「い」という。手の動き、足の動き、表情筋のひと筋、ひと筋が、精妙に動いて・・・、つまり身体が言葉を支えて・・・ほらぁ、もうそれだけで、芝居ははじまる。そして、その空間に共に身を置くことで生きる充実感を得る。演劇とは本来そういうものなのに、それを人は欲しがっていない。コロナのせい? そうかもしれない。でも、そうじゃないかもしれない。彼の言葉はそのジレンマの表象だったように思うのです。
 明日(あ、もう、今日か)は、稽古2本立て。「タンドリーチキンの朝」の有定千裕さんと「アイランドキッチンの昼下がり」の中山ヨシロヲさんと3人です。稽古でも蜜は避けなければならない。稽古のときいつも思うんだけど、役者は休めるけど、演出担当は休みがない。だけど、ときどき休む。ごめんね。
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風通信195

2020/08/03(Mon)
風通信 |
 ここのところのコロナ陽性者の数をみると、第2波がすでにはじまっていると思うんだけど、どうなんだろう? 重症者の割合は低いということだが、僕のように高齢者だと一概に「ああ、そうですか」と言えないことは確かですな。僕の周りは今のところ大丈夫だけど、ソフトバンクの長谷川が罹患して、昨日の試合は中止。中世の修行僧のような彼が夜の街で遊んだとはにわかには信じがたいので、何処で誰が罹患するか闇の中、かいもく分からない情況だね。

 問題は、10月の公演。なんか、本気で心配になってきたなぁ。前にも言ったように福岡県の施設なので、県のガイドラインで使用不可となったらアウトです。でも、すでに列車は動き出しているから、よほどのことがないかぎりそれを止めることは出来ない。観客席が半分になろうとも(そしてそれはほぼ確実なんだけど)、舞台は必然的にそこにあるべくしてあると考えたいんです。というかね、公演、それ自体がヴィークルとして僕らを運んでいるような感じだな、今は。横を見れば、作家の別府がいるし、心強い我が制作スタッフもいる。地味に待っててください。

 先週は、装置のN君と打合せ。コロナ対策の具体案は出していない。今週、頼りのA君と打合せの予定。何かと工夫を凝らすベテラン、稀代のアイデアマンだから妙案が出てくるんじゃないかなぁと期待しているけど・・・。なにより、コロナ対策を考えなくちゃいけないよね。また、先週はバンドチームの椎葉さんとも打合せをした。思いがけず、アレンジの方向性が定まっていて、正直ビックリした。練習場所の目安もたって、ガールズコーラスに関する人の手配なんかも話せました。今回のひとり芝居3本立ては、幕間に1950年代から60年代の楽曲をセレクトした。だから、おそらくコード進行もシンプルなはずだ。

 拠点の稽古場は、大橋の「夢あ〜る」。昼間は仕事があるので、主に夜の稽古です。僕はだいたいにおいて稽古のときは動き回りながらなんだけど、最近は1時間もすると体力が持たなくなって、つい椅子に座る。致し方ないとはいえ、情けない。でも、とりあえず頑張ってます。稽古場の経費はバカにならないんだけど、「夢あ〜る」は市の施設なのでかなりリーズナブルに設定してあって、それはそれでありがたい。一方でさらなる経費削減のために、無料で貸してくれるところを探して、ついに教育関係施設の視聴覚室をお借りすることができたんだよ。関係者の皆さまありがとうございます。

 稽古場問題は舞台関係者にとって積年の課題だな。制度として芸術文化の振興を促すシステムは少なからずあるし、多くの劇団はそれを頼りにしている面も否めない。でもなんか変な感じ。巧く言えないんだけど、ベクトルが違うような気がするんだね、僕は。たとえば、芸術振興のためにこんなことを企画したので、参加したらどうかというベクトルは、創作側にとって受身であることは免れないでしょ? 行政は所詮ゼネラリストでなくちゃ務まらない職種で、そんな行政側に頼ってどうするの? といつも思う。むしろ、スペシャリストである僕らの方から行政を動かすくらいの気概が欲しいのですね。ところが、ひとりひとりの、あるいはひとつひとつの劇団の声ではたぶん届かない。だから纏めてパワーにする。僕がかつて非営利団体を創ったとき、おぼろげながら考えたいたことは、そういうこともあったんだ。ま、主役にならない団体ね。だって、主役はあくまで芸術創造団体でしょう。その支援するなら主役になってはいけないのだから。んなことより、とりあえず、僕は稽古場が欲しいのだった。
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