ニュース・日記

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風通信74

2016/02/12(Fri)
風通信 |
半年前の暑い日盛りに、
『リア王』の台本を書いていた。
おいしい台詞がいくつもありました。
その中に「リアの影だ」という道化の言葉がある。
おいしい。

娘たちの思いもよらない裏切りに、
混乱したリアがこんなはずではなかった・・・
まあそういうサブテキストのもとに、

 リアはこんなふうに歩くか?
 こんなふうにしゃべるか?
 頭が悪くなったのか? 分別が鈍ったのか?
 いや、違う。

と嘆く。そして最後に、

 ・・・誰か教えてくれ。わしは誰だ?

と言うと、道化がすかさず、「リアの影だ」という。
おいしいと思うのです。

ここから話は、少しずれていきます。
僕らの生には必ず影あるのではないかということ。
僕らの実物の姿と相似形の影ね。
それは影だから、僕らの存在そのものでもあるわけですね。
そのことを意識しておきたいと思う。
たとえば、
いつも明るく笑って、元気な人がいる。
その人の影はいつも哀しみが流れている。
逆のモードが同時に存在することです。
笑っている人も泣くことがある、ということではない。
笑っていると同時に泣いているのだ。
あるいは泣いていると同時に笑っているのだ。

生きていれば、
泣きたくなる局面に遭遇しないはずはない。
彼、もしくは彼女に影があると思うのは、
まさにそう考えたときだ。
泣きたいときに泣けばいい、と人は言うかもしれない。
しかし、泣きたくとも泣けないときはやっぱりあるし、
泣けるだけの幸せを持てないことだってある。

泣いているんだけどどこかで笑っている。
笑っているんだけどどこかで泣いている。
突き詰めていけば、僕らの生の在り方には
そういうところがあるんじゃないだろうか。
役者は、そのことを想像しなければならない。
想像する力が必要なのだと思うのです。
いや、役者のみならずかもしれません。
感情の天秤棒みたいなもの。
そういうバランスの上で、
僕らの生は奇跡的に成り立っているのではないだろうか。
あるときは影が強くなったり、あるいは逆だったり、
いずれにせよ、どちらか一方だけになることはない。
だけど、ときどき、そのバランスが壊れてしまうこともある。
そして、そんなとき、
人は、ふと死んでしまうような気がする。
ほんとうにそういうことはある、ような気がします。

ところで、はじめに書いたように、
おいしい台詞がまだまだあります。
願わくば、そのひとつでも、
僕らの芝居で心にとどめてもらえると、とても嬉しい。
たとえば、こんなのはどうでしょう。

狂気の中でリアは、

 人はみなこの世に泣きながらやってきた。
 生まれて初めて空気を吸って、わしらは泣いた。
 いいこと教えよう、よく聴け。
 生まれ落ちると泣くのはな、
 この茶番の劇場に引き出されたのが悲しいからだ。

リアのこの台詞を聞きながら、
忠臣グロスターは号泣します。
その「号泣」の意味を、言葉で説明してもつまらない。
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