ニュース・日記

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風通信129

2017/10/10(Tue)
風通信 |
四人の中では、森川がいちばん年下だった。
20代前半の男同士ではたとえ一年であっても、
学年の違いは絶対的なものだ。
だから、みんなから弟のように扱われていた。
それが森川の立ち位置だった。
そのせいでもないだろうが、
森川は面子が足りない時に駆り出されることが多かった。
それは絶対に断ることはなかったように思う。
じゃ、そのとき以外は、何をしていたかというと、
今になってみると、よくそんなことが出来たと思うけれど、
レコードを鳴らしながら、たいていは本を読んでいた。

六月頃だったか、彼が教育実習に行くことになった。
神奈川のある県立工業高校である。
そのときの詳しい話は知らない。
でも、いくぶんかは僕らにも責任があると思うのだけれど、
彼は2週目の月曜日に大遅刻をやらかしたのである。
いやね、日曜日の夕方から始まった勝負が
月曜日の未明まで続いたのです。
すでに勤め人だった一番上の村山は寝たら起きられないと、
始発の電車に乗ったと記憶している。
森川はどうしたか。もちろん寝たのである。
起きたのは午後3時の、すでに陽射しが窓から斜めに差し込む時刻。
実習校に電話を入れたら、
遅くなってもいいから顔を出せと言うことで、
すごすごと駅に向かっていく。
残った僕と野田は、にやにやしながら眺めていた。
たぶん、僕らが求めていたのは時間と自由だったのだ。
それらは、ある程度お金で買えるものだが、
そういう姿勢はたぶん経済の問題とは別の次元のことだ。

もうひとつ、エピソードがある。

森川には付き合っていた女の子がいた。
ミッション系の女子大学に通う女の子だった。
たぶん、実習で遅刻した年の年末のことだ。
彼女から、大学主催の「メサイア」のコンサートに誘われたんですね。
それが土曜日の夜。
僕らは金曜日からほとんど徹夜で。
森川は合唱が会場を満たす中、高々と鼾をかいてしまった。
彼女とはクリスマス、つまりその夜以降、
二度と逢うことはなかったようだ。
それでも、森川はそのことについては、一言も言わず、
今まで通りに家の管理をし、麻雀の面子が足りない時には、
断ることなく付き合っていた。僕らは、
彼が口に出さないことで痛みに耐えていると感じていた。
痛々しいほど僕らも若かったよね。
でも、なにも言わなかった。

その半年後、僕らの生活は終止符を打った。
村山は、会社で主任になたっ途端に忙しくなったとぼやき、
野田は、千葉の会社に就職した。
僕は、編集プロダクションに勤めはじめ、
森川は、奈良で中学校の教師になった。

最後の夜。ほとんど整理のついた部屋の窓を明けて、
四人で月を眺めながら、ゴールド・ブレンドを飲んでいた。
♪ダバダァ〜違いのわかる男・・・というCMがありましたね。
そんな台詞がまったく似合わない野田が、
「なあ、60になったら、みんなで集まって麻雀せんか?」と言った。
森川がすかさず「あい、いいですね」と応えた。
僕は軽く「うん」といい、村山は黙って月を眺めていた。
そうして、僕らはそれぞれの道を歩き始めた。
特別な話ではない。よくある話かもしれない。
たぶん、あのときが、
僕らの人生の中でカチャリと歯車が回った時だったんだろう、
今になって、そう思える。
そして、僕ら三人が再会するのは、30年後の奈良である。
膵臓ガンで死んだ森川の一周忌だった。
初めて会う森川の奥さんから、
「みなさんのことは何度も聞いています」と言われた。
案内されて彼の部屋に入り、
若い頃の面影を残した森川の遺影を眺めながら、
村山が「森川ぁ、なんかぁ、おまえ、はよ〜死んでから」と言い、
僕と野田は言葉を失っていた。
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