『声』:劇評

『声』:劇評

【『声』:劇評】

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久々に名前を聞き、その戯曲を見、改めて才気と詩魂に魅了された。その人の名はジャン・コクトー。

今年から始まったぽんプラザホール火曜劇場第三弾として制作集団アントンクルーは『ジャン・コクトーの「声」より』(潤色・演出・安永史明)を番外公演した。二月一日。

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公演前のドラマ・リーディングには意表を突かれた。
案内役の岩井眞實プロデューサーの思い入れとみたが、台本を手にした普段着の朗読者は淡々と読んだ。電話すなわち見えない声を通しての他者・男を想像させて興味を募った。

約一時間後の本番は一変する。まさしく一人芝居である。ソファと旧式の受話器だけのシンプルな小部屋。姿のない男と交換台を相手に恋する女の七転八倒する胸のうちが丁寧にクローズアップされ刻印される。その駆け引きの面白さ。

ジャン・コクトーが「ピアニストヴァイオリニストのためにソロがあるように女優のためのソロ」として描いた芝居を男優の菊沢将憲(空間再生事業・劇団GIGA)は本物の女性以上の哀れみと色気を醸し出していた。中世的な衣装やメイクも程がいい。台詞回しやしぐさにゾクッとする妖艶な鬼気が漂っていた。
女優役を男が演じるたくらみは成功といえる。ケガの巧名などではなくプロデューサーの成算、役者の資質と精進、精巧な演出が相まってのことだろう。

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当制作集団が昨秋公演した「TENJINKI(岩井眞實作・安永史明演出)」は登場人物も多く、時代や空間も右往左往して作品の意図をはっきりつかまえることができなかった。

「声」は対照的な一幕一人芝居。
アパートの一室から世間や男への空間の広がり、五年前の過去から明日を推察させる時間の流れ、そして類をみない集約性と求心力はジャン・コクトーそのものか。いつしか「私の耳は貝の殻−」小説「恐るべき子供たち」映画「オルフェ」を懐かしく思い出していた。

アントンクルー、そして火曜劇場に感謝したい。

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2005/2/24 日本経済新聞(夕刊)「アプローチ九州文化」〜東 義人〜

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