忘れられない『声』
【忘れられない『声』】
人にはそれぞれある特別な年代にしか手にすることができない特別なものごとがあるような気がする。それはささやかな炎のようなものだ。
ジャン・コクトーの『声』は僕にとってそのような作品だった。
当時、僕はNPO法人福岡パフォーミングアーツの理事長をしていて、ぽんプラザの「火曜劇場」を主催する立場だった。詳しい話は省くが「火曜劇場」では多くの劇団に、なるべく実験的な試みを実践してもらいたかった。そこで、皮切りに普通の公演ではなかなか出来ない一人芝居をぶつけてみた。それもリーディングを付けて上演するという試みに挑戦したのだ。当時はまだリーディングは少なかったですね。
作品は以前から温めていたジャン・コクトーの『声』。
この一人芝居を、男優で演じることは最初から頭にあった。あの作品は女優で演じられるべきではないと考えていていた。ところが、福岡で演じられる男優は、僕に知る限り二人しかいない。蛯原啓明と菊沢将憲である。蛯原が福岡の演劇界から身を引いて久しい。(ガンダム蛯原君、お元気ですか?)・・・となれば、菊沢君しかいない。つまり、菊沢将憲のための芝居だと考えていた。彼はスケジュールがタイトな人なので、早めに声をかけなければならないのだが、時間がなかった。だから、僕は彼がもし断ればこの作品は上演しないつもりだった。
稽古は1月4日からはじまった。真冬である。冬はさまざまな事物を明確にしていく。稽古場でそれが明らかになる。稽古場は平尾のバプテスト教会。今にして思うと、たぶん僕と菊沢にとってのテラ・インコグニタ(未踏の大地)の始まりだったような気がする。19時から22時まで稽古。それも一日置きの稽古だった。芝居をやっている人なら分かると思うが、これはかなりシンドイ。役者にとっても演出家にとってもだ。今まで随分芝居を創ってきたけれど、これほど疲れた稽古はなかった。菊沢は僕以上に疲れたことだろうと思う。最後まで投げずに付き合ってくれた彼に感謝である。何かを犠牲にしなければ自分の想う世界に入れないということがある。そのようなことを身体の深いところで実感させる記憶だ。その時の写真は残っていないがきっと二人とも凄まじい顔だっただろうと思う。
重要なアイテムは電話器。探しましたね、福岡の古道具屋を。そして、まぁいいじゃないかというのを見つけ、自在にベルが鳴るように加工。やってくれるのは、Integral Sound Designの遠藤さん。「音」についてどんな難題にも、応えてくれる人は彼しか思い浮かばなかった。
遠藤さんについては個人的に感動したことがある。以前、財団主催の演劇ワークショップの成果公演(万能グローブガラパゴスの川口君が主役でした)の時、洞窟のシーンがあって、演出の僕は音響担当の遠藤さんに、洞窟の反響音を作ってくれと依頼した。出来るんですね、そういうことが。確かゲネプロではじめて聴いたのだが、素晴らしい効果があって、思わずOh!! とのけぞりました。
音楽は、やはりシャンソンだろうと・・・。これも聴いた。有名どころから、そうでないものまで4〜50曲。それで結局『パリ祭』に落ち着くのだからスタンダードというのはやはり意味があるんですね。でも、CDの音源では雰囲気が出ない。そこで考えたのはSP版の音にすること。アントンの音楽を担当しているのがサポートクルーの上田サチヲさん(Happy Hill Music)で、彼に依頼しました。彼は実に美しく僕が望んだ1920年代の音を再現してくれました。
もちろん、舞台音楽の作曲もピアノ一本で担当。これはでも、稽古の時の方が素晴らしかった。教会にはピアノがあって菊沢の動きを見ながら即興で音を付けていくんだから。公演会場のぽんプラザにピアノがあれば、あの稽古場での空間が再現、いやそれ以上の音ができたと思う。
衣装は、二人でコムサに買いに行った。スタイリッシュな細身の感じが気に入ってた。まあ、どうでもいいことですが、個人的にも好きです。白いシャツに細かく花柄が織り込んである。それを上二つのボタンを留めないで胸をはだけること。
ついでに、誰一人としても気づかなかったけれど、菊沢は黄色のコンタクトを付けました。今にして思うと、もう少し濃い方が良かったかもしれない。彼はもともと目がとても良い(あ、よく見えるという意味じゃなくです)役者なので、さらにそこに「妖しさ」が欲しかったのだ。「妖しさ」の決め手は目にある。
忘れてはならないのは、リーディング。もちろん、菊沢本人がしたのであるが、一時間後の上演された時の菊沢とあまりにも違っていて、同一人物と思えなかった人がいたらしい。タキシード(だったか)姿のプロデューサーの岩井が前説を入れる。これがなかなかさまになっていて、それはそれで・・・。
チラシは高田裕子さん。アントンでは「TENJINKI」のチラシのデザイン、そしておもちゃの箱のような舞台美術を担当してくれました。彼女は菊沢のイメージをあたため、あたため描いてくれた。愛が溢れるチラシであると思う。
本番2月1・2日。
付録:上演当時はコクトーが亡くなって50年は経過していなかった。したがって著作権は発生する。この公演は、そのことを考慮して潤色翻案として『ジャン・コクトーの「声」より』とした。もちろん一般的には、『声』でいい。文学座のアトリエ公演でもその方法を取ったらしい。上演した演出家に確認して分かった。ただし、一応(確か)「日本ジャン・コクトー協会」というのがあって、問い合わせはしました。でも返事がなかったと記憶している。