プラトーノフはこうして始まった。

プラトーノフはこうして始まった。

【はじまり】

僕は日記をつけない。だから、記憶は曖昧で、選択的だ。忘れることは忘れるし、忘れないことは忘れない。
まあ、当たり前のことだけど。

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1999年の秋が終わる頃だった。高宮のアミカスホールのロビーで、ある劇団の公演終了後、煙草を吹かしていたら(いまだにこの癖は直りません)、講演会場から演劇評論家の梁木靖弘さんが出てきた。
たぶん、彼と会ったのはその時が初めてじゃなかった。でも、じゃあ、いつが初めてなんだろうと、考えると、それがよく分からない。

型どおりの挨拶の後、彼が「あのサァ、チェーホフを県民創作劇場でやりたいんだけど、安永さんやらない?」 そんなふうに、はじまりました。
僕は『かもめ』をやりたかったのだが、梁木さんはチェーホフのレパートリー上演を考えていて、どうしても『プラトーノフ』から始めようと主張した。県民創作劇場の総合プロデューサーは彼なので、演出家はそれに従わなければなりません。

当時のメモを見ると、次のような問題点を梁木さんに伝えている。たぶん何度か会って話したと思う。梁木さんも僕も今ほど忙しくなかったんですね、きっと。でも、メールで話したのかもしれない、不明。

【主な問題点】

#1,従来、県民は福岡地区で頑張っている劇団が引き受けて実施されていた。安永は、主宰する劇団を持たず、役者をどうするか。

#2,『プラトーノフ』は、全部上演すると、8時間から9時間の作品で、アデプテーションをどうするか。また、『プラトーノフ』という作品の問題点はどう克服するのか。

#3,県民の最終的な目標は何なのか。福岡でチェーホフを上演する意味はなんなのか。

#4,上演時期は、いつになるのか。

【梁木氏の解答】

#1,自分の考える近代劇にちゃんと取り組める劇団が少ない。

#2,1956年にフランス人のポル・クランタンがアダプテーションした版があり、それを用いよう。

#3,福岡という地で、きちんとした近代劇、台詞劇を上演して、福岡の土壌を豊かにしたい。

#4,11月末

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僕は当時、劇団を持っておらず、役者のあてがなかった。

とりあえず、旧知の照明家、荒巻久登君に女優を紹介してくれと頼み、酒瀬川真世の携帯の番号を教えてもらった。彼女のことは知っていた。初めて記憶に残ったのは、彼女が高校3年か卒業公演の時の、『想稿 銀河鉄道の夜』(あれは高橋徹郎君の演出だったかな)を見た時。

男優のはじめは、岩井眞實。
彼とは、夏の盛りに出会った。イギリス留学を終えた彼が、赤煉瓦文化館でイギリス演劇について話をする会だった。福岡で珍しい機会なので、聞きに行ったように思う。休憩時間にたまたま、煙草を吸っていたら彼がやってきて一緒になった。(やれやれ、また、煙草だ・・・。岩井はその後、何度も禁煙しました)

それが縁で、夏休みに福岡市文化芸術振興財団主催で僕が講師を務めた「ティーンエージャーのための演劇ワークショップ」についての記事を彼が西日本新聞に掲載したと記憶している。留学先のイギリスで、彼は演劇ワークショップを経験し、役者修行もちょっとやったという話も聞いていた。それで、手紙を書いたか、電話をしたか曖昧なのだけれど、打診。二つ返事で出演をもらった。これで役者の二人を確保。

その後のアントンクルーでは考えられない長期に亘る準備でした。紹介された役者サン達のひとりひとりに会い、一時間近く話し込んだりした。当時は僕も時間がありましたね。

梁木さんからポル・クァンタンの原書を借りて、趣味でフランス文学読んでいる、(それはそれで凄いんだけど)友人の松井紀道に暇を利用して、昼下がりのファミレスに入りコーヒーを何杯も飲みながら、台本を書きました。

そうそう、僕が岩井と初めて出会った会で、岩井は粗忽家酔書さんと出会っている。それが縁で内浜落語会に彼は入門する。粗忽家鴈治郎と言います。その内浜落語会にいたのが、現在、団員となった勘タンである。

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縁というのは異なもの味なものですね。

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