ニュース・日記

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風通信196

2020/08/08(Sat)
風通信 |
今週は、照明を頼んでいるA君と打ち合わせをしたよ。パピヨンガーデンにあるコメダ珈琲は、具体的な客席の措置はなされていなかったけれど適度な人数だったな。客席毎のビニールシールドはあってもいいかなと思った次第。まあ、それはいいさ。
 開口一番、彼の口から出て来たのは「演劇はこんなに必要とされていないんですね」という言葉だった。この言葉だけだと意味が分からない、よね? でも、彼が言いたいのはおそらくこういうことじゃないかと思うんだ。ちょっと僕なりの注釈をしてみようか。間違ってたら、ごめんね。
 彼のいう演劇とは「ライブ感」じゃないかと思うんだな。映画やTVの芸術性は認めた上で、それでも演劇にしかないのは生身の人間が全身で舞台に立って演劇をするというライブ感だと思うんだ。図らずも、昨日の稽古でね、有定(女優です)に向かって僕は、正確には覚えていないんだけど、こんな言葉を言ったんです。「いいか、言葉は不自由なものだ。言葉では想いの何十分の一くらいしか伝えられない。だから、そのことを分かった上で演技をすること。人は全身で話していると思った方がいい。だから、君の一挙手一投足がすべて言葉。舞台でお客さんは君の全身をみている。台本は書かれた言葉だ。だけどそれを君が生きた言葉にする。言葉を身体が裏切ってはいけない」こう書くと、なんだか自分のその時の想いがうまく伝わらない気がするなぁ。稽古のときは、想いも、意味内容も成立しているはずだけれどね。まあ、こんなふうに、よくしゃべっています、稽古では。有定さん、五月蠅くてごめんね。
 役者が舞台で生身を曝して演技するというギリギリの情況は演劇でしか味わえないライブ感じゃないかと思うんだ。A君が言った言葉を僕なりの解釈すると、昨日有定に話した言葉と同期すると思うわけ。つまり、そこにひとりの人間が立っていて、「あ」と言う。次に「い」という。手の動き、足の動き、表情筋のひと筋、ひと筋が、精妙に動いて・・・、つまり身体が言葉を支えて・・・ほらぁ、もうそれだけで、芝居ははじまる。そして、その空間に共に身を置くことで生きる充実感を得る。演劇とは本来そういうものなのに、それを人は欲しがっていない。コロナのせい? そうかもしれない。でも、そうじゃないかもしれない。彼の言葉はそのジレンマの表象だったように思うのです。
 明日(あ、もう、今日か)は、稽古2本立て。「タンドリーチキンの朝」の有定千裕さんと「アイランドキッチンの昼下がり」の中山ヨシロヲさんと3人です。稽古でも蜜は避けなければならない。稽古のときいつも思うんだけど、役者は休めるけど、演出担当は休みがない。だけど、ときどき休む。ごめんね。
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