ニュース・日記

ニュース・日記

風通信182

2019/03/24(Sun)
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なんとなくだけど、気分がフォールダウン気味なので、
久しぶりにビートルズでも流そうか
(部屋では音楽がいつも流れています)と思って、
CDの棚を見ていたら、
EIGHT DAYS A WEEK -The Touring≠フBRがあったので、
久しぶりに映像でも見ようかと思い、セッティング。
深夜じゃなかったから、サウンドも絞らずに。

音楽はいうまでもないけれど、
彼らが単にバンド≠ナなかったことについて、
認識を新たにしました。
こんな年になってなんだけど、ちょっと感動します。

映画「カラー・パープル」で主演した、
ウーピー・ゴールドバーグがインタビューに答えている。
「子供心に何か≠ミらめいた。
 世界が輝いてるって、突然感じたの。
 この人たち、好き。私は黒人よ。
 彼らは白人じゃない。 ビートルズよ。
 誰でも受け入れられるとビートルズに教わった。
 好きなように生きていい。」
1960年代のアメリカがどういう国であったのかを
考えたとき、彼らの存在が、
自分の人生の方向を見出したひとりの少女に、
我知らず影響を与えたということなんですね。

おそらくすべての芸術は時代の桎梏から
免れることはないだろう。なるほど
ビートルズがあの時代にあの場所で生まれたのは
偶然だったのだろう。けれど、もしかしたら、
彼らの存在は、
時代がビートルズという集団をたまたま生み落とし、
その偶然が普遍性を獲得するという奇跡だったのかもしれない。
それを、僕らは自分自身の経験として、
感じ取っていたのかもしれない。
そのことは、ビーチ・ボーイズやストーンズには
ついに成し遂げられなかったことかもしれないですね。

ジョージの言葉が印象的だ。
「あの人たちやこの人たちのための演奏じゃない。
 人々のための演奏なんだ」
もちろん、後々、大人としての計算や思惑は生じるだろうが、
少なくとも初期のビートルズは、ただひたすら音楽好きの
そして、自分に正直な若者の集団だったようだ。
おそらく、自分たちがこう創りたいと思う音楽を
創りたいだけの単純な若者が、
永遠性を獲得できたことの不思議さを感じる。

このドキュメンタリーでは、
なぜ彼らがコンサートを止めたのかが、
すごくシンプルに説明されている。
シンプルというのは、
言ってみれば分かりやすいと言うことです。でも、
それだけだと、ツァー終了後の傑作アルバム群が
どうして可能だったのかを説明しきれない。
それがちょっと不満ではあった。
まぁね、タイトルからしてそこが狙いじゃないとは
分かっているんだけれど。

むかし、一緒に住んでいた女の子に、
「僕の気分が落ち着ちたときは
 黙ってビートルスのレコードをかけるといい」
と言ったことがある。
確かに、そうだった。
でも、今はそれほど簡単でもないし、単純でもない。
こういうとき、少しだけ年は取りたくないと思う。
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風通信181

2019/03/23(Sat)
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今年も、「西日本陶磁器フェア」に行ってきた。
もっとも、最近はお気に入りの窯元だけ観て、
サクッと会場を廻って足が止まったところで、
気に入れば購入、長居はしないというのがパターン。
磁器は好きではなく、陶器が中心です。
40代の頃は、かなりの頻度で窯元巡りもしたし、
気に入った窯元もいくつかあったのだが、
2005年の西方沖地震の本震で棚の中の半分が割れて、
ひと月後の余震でその残りの半分が割れてしまった。
時間をかけて集めた物だから残念だったけれど、
形あるものが未来永劫続くわけだしね。
それ以来、熱心に集める気力も徐々に失せました。
それでも織部を中心にネットで見つけた作家の作品を
時々は購入したり、旅先でふらりとギャラリーに入って、
手に取って馴染む陶器を気まぐれに買ったりしている。
民芸趣味ではないけれど、陶磁器は日常で使ってこそ、
という思いがあるわりに、非日常的な食器を使っている。
ここ数年のお気に入りは、鹿児島の岩元鐘平氏の作品。
使っていると幸せになる。置いてみてもいい。
自宅の食卓というか、テーブルは、
縦90p、横は300pはあろうかという大きなものだ。
それを印刷用語でいうと金赤に塗ってあるので、
原色が取り混ぜてある色とりどりの彼の作品は似合うのだ。
もっとも作家が意図したようには、使わないことが多い。
たとえば砂糖壺で売られていた物は薬入れに使ったりたりとか。
今回買った物ではデザインが異なる小さな湯飲みがある。
それを五個並べると、それだけでオブジェになる。
10年ほど前は、佐賀の吉田求氏の作品を買っていた。
刷毛目に勢いのある変形の器が多く、
造形作品としても優れていたように思う。
僕が通っていた時期はまだ客も多くはなかったのだが、
雑誌かTVに紹介されてからは一気に客が増え、
それと同時に、一般受けするような
穏やかなスタイルに変化していった気がして、足が遠のいた。
彼の器の多くは地震で割れたので、
できればセットの中で残った物を持参し、
同じような物がないか探したのだが、作風の変化に伴って、
失われた物は二度と帰って来ない。人生と同じですね。
基本ラインは変わらないけれど、作家も変化するのですね。
だから岩元氏も来年はどんな作品になるのかわからない。
昨年のフェアで見つけた神戸の山本直毅氏は
今年も出品していて8寸の深鉢がなかなかよくて、購入。
枯淡の味わいが現代に通じるような作風である。
あの色はなかなか出ないと思うな。
でも、昨年あった深い黒紫の色が今年はなくて残念だった。
焼くときの窯の温度や天候などの状態で変化するらしい。
その一回性がなんともいい。
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風通信180

2019/03/20(Wed)
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つづきです。

ちょっとドキッとするシーンがある。
主人公が昼寝をしている。右にパンニングしていくと、
死んだはずの娘たちがいて、「パパ、私たち焼け死んじゃうの?」
10秒ぐらいのカットである。
次の瞬間、部屋に煙が充満していて、
キッチンでフライパンのソースが焦げていることに気付く。
ただそれだけなんだけど。もちろん、そりゃ夢でしょ、である。
きっと、夢の中では子供たちは永遠にあの時のままなんですね。
けれど、こういうシーンの積み重ねが、
徐々に主人公のかたくなな心を柔らかくしていくわけだ。

小道具も効いていた。
主人公がキッチンでコーヒーを飲むときのマグカップの色。
主人公が乗る、やはりそれでしょ、という車の選択。
美しく並べられたライフルなどの銃器の棚の照明。
ここはユーモアのシーンだった。
さりげなく重いテーマの中に、
分かるか分からない程度のユーモアがちりばめられている。
主人公が夜中にコンビニに行くときに
劇中曲としてアルビニーノのアダージョが流れたときには
ちょっとした違和感を感じたけれど、次の瞬間に
その意図は理解させる心憎さ。でも、僕はベタだと思う。

後見人に指名されて、ボストンを引き払うとき、
主人公が3枚のフォト・スタンドを
本当に丁寧に布に包むシーンがある。
兄の家で彼が寝る部屋の家具の上に、
そのスタンドはキレイに並べられている。
後半、ホッケーや、バンドや、
女の子とセックスすることしか
考えていない甥が、そのフォト・スタンドを偶然見つけて、
じっと見つめるシーンが挿入される。
台詞もなく、ただじっと見つめる甥っ子。
6秒から10秒ぐらいの長いカットなんだよね。
おそらく、彼はその時、叔父の痛みを知ることになるのだ。
そのようにしてたぶん人は大人になっていく。
16歳であれば、成長という言葉で表現されるのだろうが、
彼が変わることが、主人公が変わることの予兆になるのだろう。

女性モテるという意味では、主人公と甥は似ている。
だけど、この映画にセックスシーンはない。
きわどいところまでいくのだけれど。
それは映画作家の選択された品性とみておきたい。
人も殺されず、セックスもない。
そういう作品を書いてみたいと、
『羊をめぐる冒険』で鼠が言ってたことを思い出します。
(『ピンボール』だったかなぁ)
主人公の兄は、人望厚い人物だと設定されているのに比べて、
主人公は若い頃から、やんちゃ。
それも甥っ子が受け継いでいる。そして、
父親の埋葬まで遺体を冷凍することへの心理的抑圧に、
耐えきれないナーバスなところも似せているのだ。
今の主人公でなく、16歳の時だったらという意味です
丁寧な人物造型だ。

回想で、兄の船の上で甥をからかうシーンがある。
複数回見せるのです。これが伏線でね。
エンディングまで待たないとわからない。
静かな船上シーンで、
主人公と甥が並んで釣り糸を垂れている。
主人公はボストンで再生の日を生きるだろう。
そして、甥はこの町で父親がそうであったように、
漁師として生きていくだろうと予感させる。
つまり、
やんちゃだけの子供ではなくなったということです。
船を誰が操縦しているか、などと邪推してはいけない。
エンディングはこうでなくちゃいけないのだ。
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風通信179

2019/03/18(Mon)
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遅まきながら、
やっと『マンチェスター・バイ・ザ・シー』を観た。
WOWOWで放映されたもの。
いやぁ〜、こういう映画があるから、
映画というジャンルは廃れることがないんだなぁ。

神経が隅々まで行き届いた物語世界です。
無性に誰かに語りたい作品だった。だから、
時系列ではなく、僕なりのメモを残しておきたい。

物語は、冬から春。
もちろん、それには再生の意味があるだろう。
その時間の中で、過去の回想シーンが流れ、
それが登場人物たちの「今」に関係づけられる。
自分の不注意で幼子三人を焼死させた主人公は、
それ以来、時間が止まったまま、
ボストンで便利屋として「今」を生きている。
故郷に残った兄が亡くなり、
その葬儀と残された甥の世話で、とりあえず、
マンチェスター・バイ・ザ・シーに帰ることになる。
そこが彼の、物語のトポスとなる。
彼がそこを離れて、ボストンで生活しているのは、
結局は、過去から単に逃れるためとも言えるのだが、
兄の死は、そういう彼を半ば強制的に「過去」へ引き戻す。
けれど、彼はかたくなに「今」を生きるしかない。

ひとりの人間が
ひとりだけで変わるということは不可能だろう。
そのための仕掛けが用意される。

余命を告げられていた兄は、遺言書を残していて、
それには、彼が16歳の甥の後見人になることと書いていた。
それは誰も、想像していなかったことだし、
当の本人でさえも困惑する。ともあれ、遺言は遺言。
なぜ兄がそうしたのかが、全編を通して語られることだ。
真意はたぶん、「過去」の止まった時間の中に生きている主人公を、
「未来」へ生きていかせようとする願いなわけです、おそらく。
後見人になることがどうしてそうなるのか。
誰しも、避けたい過去があるとき、
本当はその「過去」に向き合わないと「未来」を生きていけない。
兄の真意は、なにより弟である主人公を「未来」に生かすこと。
後見人になるということは、言うまでもなく、
一度は逃げた故郷に帰ることを意味し、
この町の残らざるを得ない状況を作ったのですね。

【印象に残ったいくつかのシーン】
主人公が事故後に、故郷を出てボストンに行く時の、
二人の別れは何気ないシーンなのだが、
カメラワークは抑制が効いている。
寄ることはせずに、中間距離を保つのだ。
下品な映画は、ここでアップにして、
別れの言葉をそれぞれに呟かせたりする。
その時五歳くらいの息子を
兄が「叔父さんが行くぞ」と呼ぶんだけれど、
すぐには登場させない。
計算されたシーン。

ボストンに着いて、アパートを借りる。
何もない部屋。生きる価値を見いだせないことの表示。
寝るだけでいいという主人公に、
訪れた兄は、ソファやテーブルを買い与える。
しかし、回想シーンでは主人公はそれらを廃棄している。
そこまでかたくなのだ。
そして、物語の終盤。
すべてが終わってもう一度ボストンに帰るとき、
彼は甥に「一部屋取って、ソファーベッドを買おう」という。
「行かないかもしれないよ」と甥が言うと、
「じゃあ、物置にでもするさ」と答える。
つまり、彼の今回のボストン行きは
「未来」に向かうことだということなのだ。
巧いですねぇ・・・。

甥っ子を、兄の古い友人に託して、(つまり後見人を止めて)
ボストンに帰ろうとするのに対して、甥は、
「僕を棄てるの? 逃げるの?」と言うんだけど、
彼は「いや、乗り越えられないんだ。(だからこの町を出る)」
と言葉に出す。だけど、
言葉に出せるようになったということが重要でね。
自分のことをこうして他者に客観的に語れるようになったときに、
人はそれまでの自分と違った自分を獲得するはずだ。

よく、この場所を選んだと思うなぁ。
「マンチェスター・バイ・ザ・シー」って、町の名前です。
イングランドのマンチェスターではない。
アメリカ東部、マサチューセッツにある。
・・・といえばビージーズですね。(分かる人には分かる)
海が美しいから、そしてボストン辺りの富裕層の
ちょっとしたリゾートだから、「バイ・ザ・シー」が付いたらしい。
だから、町に住む人々は漁業などの第一次産業に従事したり、
リゾートの運営に携わるいわゆるブルーカラーの人々だろう。
美しいけれどわびしい町。
そこで、日々の営みが繰り返されている。
兄の奥さんはアル中になって結局は離婚。
(だから、後見人が必要になる)
主人公も事故後、妻とは離婚している。
甥が、離婚した母親の家に行くシーンが挿入される。
母親は敬虔なクリスチャン(おそらく牧師)の妻になっている。
この町では、裕福な家だろう。彼は居心地が悪い。
彼は二度と母親の元には行かないだろうと思われる。
あっち側には行かないのだ。
主人公も、再婚した元妻と再会し、心情を告げられる。
ここでは、号泣しながら語る元妻と
言葉を発することができない彼はアップで表現される。
そうでなくちゃですね、ここは。
このシーンを用意することで、
彼の心の中が次第に整理されることになるのだろうな。
もちろん、同時に観ている僕らの心も。

まだまだ、あるので、たぶん、つづく。
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風通信178

2019/03/17(Sun)
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「啓蟄」が過ぎたからというわけでもなかろうが、
光の中に春が生まれ、
人と会う時間が徐々に増えてきた。
残念なことに、女性からのお誘いはないけれど。

先日、別府源一郎と会う。
若い友人である。そもそも僕くらいの年齢になると、
たいていは若い友人になるわけで、
どういうわけか、僕には同世代の友人は少ない。
家族のことがどうだの、こんど誰それが入院するだの、
そういった類いのことを話すのは好きじゃないせいかもしれない。

別府には、
次回作の制作とステージの掛け持ちスタッフを依頼。
もともと制作畑の人間だと認識されているが、
ステージ・スタッフとしての力があると、
かねがね思っていたので、提案するとあっさりと首を縦に振った。
僕が気がつかない面白い視点や、
的確な判断をくれるので、ありがたい人間だ。

若い友人と言えば、暦が替わるたびごとに連絡をくれる、
暦女子の友人がいるんだが、3月6日の「啓蟄」に連絡がなかった。
忙しくしているとは聞いているので、
そのこと自体になんら含むところはないのだが、
病気にでもなったのではないかと、取り越し苦労。
どうも、年寄りはいけません。

年寄りと言えば、
(まあ、一応、年齢を重ねたと意味ですが)

これも先日、久々に畏友、岩井眞實を会食した。
旧メンバーも揃い、愉しいひとときだった。
岩井さんとの話題は、
演劇に特化せず、文化一般に亘る。
話題には事欠かない。
僕の今の日常では、なかなか儘ならないのです。
きっと、彼の守備範囲が近いのだと思うなぁ。
全体としては、
いわゆる中年を疾うに過ぎたオッサンたちの集いだから、
清濁併せ呑むというか、
高尚な話から下劣な話まで、縦横無尽。
思えば、劇団活動全盛期には、
これがほとんど毎週のことだったから、
あの日々は二度と帰らない宝物のような時間だった。
ギヨーム・アポリネールの詩『ミラボー橋』のままです。

♪ 手に手をつなぎ顔と顔を向け合う
  こうしていると 僕らの腕の橋の下を
  疲れたまなざしの無窮の時が流れる
  日も暮れよ、鐘も鳴れ
  月日は流れ、わたしは残る

  日が去り、月がゆき 過ぎた時も昔の恋も
  二度とまた帰って来ない
  ミラボー橋の下をセーヌ河が流れる
  日も暮れよ、鐘も鳴れ
  月日は流れ、わたしは残る ♪
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風通信177

2019/03/13(Wed)
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『もうひとりのシェイクスピア』の監督は、
ローランド・エメリッヒで、
日本で言えば、佐藤純弥みたいに、
柄の大きな作品を作る映像作家だと認識していた。
だから16世紀のイングランドの俯瞰的映像など、
予想したとおりの出来映えです。
原題は「匿名」で、狙いはやはり、
シェイクスピアの別人説を描きたかったものと思う。
しかし、内実はどうにもフォーカスがぼやけていて、
充分に描ききれなかったような気がする。
まあね、政治的に派手さはないけれど面白い時代ではあるし、
特に「エセックスの叛乱」とかいろいろあるから、
それを描かすにはいられなかったとは思う。
真の作者と目されるオックスフォード伯は
その中心円の中にいたことは事実だろうから。
終わってみると、
当時の権力抗争、貴族間の人間関係ばかりが目立って、
肝心の別人説に対しては既成のこととして、
中途半端な政治劇が描かれるだけである。
プランタジネット朝最後のイングランド国王『リチャード3世』を
描いた作品もロバート・セシルへの当てこすりだった、
なんていう解釈はあまりにも表層過ぎてしらけてしまった。
と、ここまで書いて、気付きました。
たぶん歴史的事項を理解していないと、
関係性が分かりにくいのですね、この映画は。
どうして『ロミオとジュリエット』を書くことができたのか、
『ハムレット』の素材は何から得たのか。
作品にそってシーンを作ってくれればボヤケなかっただろう。
もっともね、それだけだと、もったいないし、
映画としての面白みも半減するかもしれないけれど。
あれやこれやで、終わりました(笑)
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風通信176

2019/03/11(Mon)
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先週は、本業の仕事がタイトで、結局、
NTL『ヴァージニア・ウルフなんかこわくない』は
見に行けなかった。残念。
でも、『チャイメリカ』は観てきました。
雨の中、北天神の市民会館に向かう道は、女性ばかり。
ん? なんかねぇ、予感はしてたんだ。
須崎公園まで行くと、やはり女性ばかり。
なんだか、ジャニーズの公演に行くような気分になった。

本は、もう間違いなくよくできている。
天安門事件の例の写真。(戦車の前に立つ若者=市民)
その写真を撮ったカメラマンと若者の、
その後の30年に亘る人生を虚実取り混ぜて描いたもの。
演出もいつもよりクスグリが少ないような気もしたけれど、
ラストシーンなどを観れば、いかにも栗山さん。
服部さんの照明も手堅い。シャープな明かりです。
ただねぇ、役者が・・・。
ここ2年ほど、映像でしかないんだけれど、
イギリスの役者を見続けているせいか、
この舞台の役者の力が足りないのが分かる。
伝統と気品と老獪な現実主義を以て
イギリスの役者、舞台はできあがっている。
もちろん、きっと、言葉の問題もあるとは思いますよ。
確かに、翻訳すればそういう意味なんだろうけど、
ひとつひとつの言葉の担う守備範囲が違う。
日本語の冗長率の高さなのかなぁ。
巧く言えないのだけれど。
それでも、オンボロ車にはオンボロ車でしか味わえない、
独特の感覚というものがあるので、
戯曲における日本語の精査が必要なのかもしれません。

エンディングの後、暗転になって、カーテンコール。
僕は比較的前の方の席だったんだけど、
周りが全員、スタンティング・オベーションするの。
まあ、観なくてもいいけれど、
一人だけ座っているのもどうかと思って、
僕も立ち上がって拍手をしていました。
袖に、田中圭と満島真之介が捌けるとき、
両手を肩あたりで軽く振って、さよなら。
すると、あろうことか、ほとんど僕の周りの全員が
同じ仕草でさよならするわけさ。
天に祈る修行僧の敬虔さを以て天井を見上げていた。
松竹や東宝の企画じゃなく、
世田谷パブリック・シアターの企画だから、
商業演劇とはいえ、もう少し違うはずだ思っていたんだけど、
やっぱり商業演劇そのものでした。

観客のたぶん25%くらいは
「天安門事件」の歴史的意義を知らないだろうと思った。
中国政府があの事件をどのような形で処理したのか、
僕だって(いや、誰だって)正確に知りようがないし、
その意義を把握しているわけではないけれどね。だから、
歴史(すでにこの事件は歴史だ)は想像力なのだと考えていた。
いうまでもなく、ここに文学の価値が生じるんだけどね。

それにしても、
S席9500円というのは、高額すぎないだろうか。
生前、博多座の小松支配人が、高額な演劇料金は
自ら演劇をつぶすようなものだと、おっしゃってたが、
本当にそうですね。

ついでのように書いてはいけないのだが、今日は震災の日。
どれだけ時間が経過しても、
愛する人を失った人の悲しみが癒えることはないだろう。
もちろん天災にはなすすべがないが、問題は人災。
この日が来るたびに、東京五輪の誘致会場で、
現総理大臣が「福島はコントロール」されていると、
全世界に向けて、
信じられないような『嘘』をついたことを思い出す。
その人物を戴く僕らも同罪かもしれない。
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風通信175

2019/03/07(Thu)
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今年は、早々に、
珍しく本屋(恵文社一乗寺店)で、定価の本を買った。
でも、普段はほとんどブックオフのオンラインか、
ネットの古書店で気になっているモノを買う。
買いたい本をブックオフのマイブックに登録しておき、
ある程度溜まったら、発注するわけですね。
もちろん、在庫がないのもあり、その場合は、
後日、入荷のお知らせをもらうシステムだ。

先日、登録していた映画のBRディスク、
『もうひとりのシェイクスピア』の入荷連絡があった。
見逃していた作品で、なかなかBSでも放映されない。
(やっぱり『恋するシェイクスピア』とは違うかもですね)
ブックオフは物に拠るけど、
まあ、なにより安い。(今回は定価の4分の1)
けれども、欲しい場合はすぐに注文しないといけません。
それが難点といえば難点かな。
午前中に連絡があって、夜に発注しようとしたら、
すでに入荷待ち(在庫切れ)になっていることが多いのだ。
で、今回は無事に購入できるようです。

シェイクスピア別人説は
18世紀以来続けられてきた学術的議論だけど、
文献学の専門でもないし、歴史学の専門でもないから、
個々の作品の背景なんてあまり興味がない。
机の上に広げられたテキストがあり、
その物語、登場人物の心理をどう解釈すればいいのか、
そして、それをどう見せれば効果的なのか、
くらいしか興味がないのです。
それでも、なんとなく気にはなるなぁ。
僕としては、ストラトフォード・アポン・エイヴォンの
ウイリアム・シェイクスピアは、残された戯曲37作品と
ソネット154篇の作者ではないと確信的に思っている。
諸説ある内のオックスフォード伯に与したいのです。
チューダー朝の中でも
彼の生きたエリザベス朝と称される時代は興味深い。
エセックス伯の伝記とか読みたいと思っている。

ともあれ、明日には、品物が届くみたいだから、
土曜日の夜はシネマ・ナイトです。
横がおよそ1間、縦が3尺くらいの画面なので、
それなりの迫力はある上に、
最近、オーディオと連動させることができたので、
ゆっくりとカフェオレボウルでも抱えながら観よう。
いろいろ楽しくないことも多い昨今、我が身辺。
小さいけれども確かな幸せなんだろうな。
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風通信174

2019/03/06(Wed)
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旧劇団のメンバーの中では、
東さんが最も涙腺がユルい人です。

一緒に芝居を創った記憶では、
大野城市に依頼された九州戯曲賞作品『白波の食卓』。
彼は台詞が分かっているので、ソコの場面に行く前に、
すでに目には涙を溜めて演じるのであった。
これは困りましたなぁ。
だってだよ、ソノ台詞で、
一気に感情が高まるように書かれているんだから、
その前に思い入れられたら芝居にならないでしょ(笑)
いじ☆かるSTUDIOのリーディング公演『鉄道員(ぽっぽや)』では、
台詞の途中から、声がうわずってきて、
あ、来るかなぁ〜と思ったら、
やっぱり来まして、台詞が聞き取れなくなった。
きっと、豊かな人なんです。

どうも年を取ると、涙腺が緩くなってしまって、
というのが彼の言い訳である。

先日、ある雑誌を読んでいたら、
成瀬桜桃子という俳人の作品を見つけた。
平成16年に79歳で亡くなっている。
その2年前に、46歳の長女を亡くしたらしい。
いわば、その挽歌(俳句なので挽句というべき?)。
なお、亡くなったお子さんは、
永遠の子供とも言われるダウン症であったらしい。

〜黄泉路寒かろ襟巻きを巻いてゆけ
〜春の夜や夢に亡き子が「遊ぼ」と来る
〜天国行きぶらんこに娘は手を振れりけり

きっと東さんなら、大粒の涙を流すのではないかなぁ。
二つ目の句は、僕でも鼻の奥がツンとなりそうです。

来週、旧メンバーで打合せ。
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風通信173

2019/03/03(Sun)
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2月の末に、制作担当と打合せをした。
大まかなスケジュールとキャスティングについて。
今回の舞台は、キャストの人数が15人と大人数なのだが、
主役にあたるの男女二人以外はまったく決まっていない。
おまけに、その男女もまだオファーを出していないし。
作品は『ロミオとジュリエット』・・・を上演する劇団のドタバタ。
イギリスの上質な喜劇です。
もちろん、ロミ・ジュリの見せ場ありで。
ここまで、時間が空いたんだから、
いっそのことしっかりと準備をして創ろうかとも考えている。
『プラトーノフ』だって、今にして思えば、
1年半という気の遠くなるような時間をかけたしね。

ところで、もう始まってはいるけれど、
今週末までNTLではエドワード・オールビーの
『ヴァージニア・ウルフなんかこわくない』が上演される。
今週は本業では神経を使う仕事が待っているし、
3時間の上演に耐えられるかなと心配です。
4月には『リア王』の予定で、それは4時間近くあるから、
それに比べればというところだけれど、
「リア」に関して言えば、
その台詞の隅々まで把握しているつもりだから、
途中で寝ても(笑)、大丈夫なんだが、
「ヴァージニア」はほとんど知らないしなぁ。
悩ましいところです。

来週の頭では、『チャイメリカ』を観る予定で、
これは映像じゃないから、
まあ、寝ることはないだろうけど。
なかなかハードはスケジュールではある。
5月にはフェルメールを観に行くし、
6、7月に辻井伸行のコンサートを予定に入れている。

そうこうするうちに、今年も終わるよなぁ・・・。
会いたい人もいるのになぁ・・・。

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風通信172

2019/02/21(Thu)
 |
シェイクスピアの作品は、
喜劇、悲劇、歴史劇、ロマンス劇と
いくつにも分類されるけれど、
なべて風土の匂いがなく、時代の影も薄い。
要するに彼の生きたビクトリア朝を離れることはない。
たとえば、
ローマ時代の『ジュリアス・シーザー』を扱っても、
作品自体からローマの石畳を思い浮かべることはできない。
それは、つまり、どの時代どの場所で人物が生きていても、
普遍性に到達するということなんだろうけど。

と、ここまでが前説で、今日は『マクベス』の話です。
今年のNTLは『マクベス』ではじまったのだ。
昨日観てきました。

前々から『マクベス』だけは、シェイクスピアの作品の中で
少し違った風景を見せてくれるように思っていた。
さまざまの要素が、スコットランドを想起させるということ。
たとえば三人の魔女はヒースの荒野がふさわしいし、
城塞は垂れ込めた雲の下で朽ち果てていく古えの城が似つかわしい。
冷たい石壁の回廊を曲がると、
マクベス夫人が拭っても拭っても血が落ちないと、
蹲りながらほぼ狂気の中で嘆いている・・・。
そんな印象があるんだけど、
今回の舞台は、まあ思った通り無国籍風。
演出のルーファス・ノリスは内戦が続く紛争地帯と設定。
なるほど、内戦ねぇ。美術もそういうセット。
昨年末の『ジュリアス・シーザー』と同じでした。
シェイクスピア劇では、さっき述べた意味でも、
リアルな衣装、リアルな装置に必然性はないと思うけれど、
もうそういう古典的な舞台に戻ることはないんだろうな。

で、作品はどうだったかというとですね、
舞台としてはあまり面白くはなかったのだ、これが。
まず、意図は分かるけれど全体に舞台が暗すぎた。
それに、ダンカンを殺害する場面をバックライトの
影絵で見せたのもいただけない。
その事実を言葉で知らしめて、マクベスの演技≠
見せるべきだったような気がする。
あまりにも有名な台詞である
「消えろ!消えろ! 束の間の灯火! 
 人生は歩きまわる影に過ぎない! 」
を叫ばせず、深い内省の表現としたのは
優れた演出だったかなぁ。
以前、日本人の舞台で、観客に透明の傘を持たせ、
バーナムの森が動くのを見立てた演出を見たことがあるが、
「バーナムの森が動かない限り安泰だ」、及び
「女が生んだものには自分を倒せない」
という予言(言葉)に縛られているマクベス(人間)の姿を
見せることに集中させるという
今回のようなに表現すればいいのだから、
あのくだらなさが分かりましたな。
舞台としては個人的には面白くなかったけれど、
文学作品としては一級品ですね、やっぱり。
基本的なストーリーとしてはなんでもない話なのに。

話は全然別の方向にいくんだけど、
開映は20時からで、
インターミッションを挟んで約170分の芝居だから、
終映はほぼ23時となる。小屋の都合とはいえ、
一日一回の上映時間設定としてはあんまりだろう。
一考に値すると思った次第。
次回は『ヴァージニア・ウルフなんかこわくない』だ。
210分の芝居。
まあ、早く始まるだろうが、考えものです。
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風通信171

2019/02/03(Sun)
 |
今日は節分。
明日からは、春ですなぁ。
だからだろうか、如月というのに、
今日は春の嵐の福岡です。

今年も年末から年始にかけて、京都で過ごしました。
穏やかな天気で、京都の底冷えも感じなかった。
さすがに比叡山の麓辺りでは、
それなりに冬の空気を感じはしたけれどね。
一乗寺に、「恵文社一乗寺店」という本屋があって、
お店そのものが思想のような店内。
そこで長い時間を過ごすことができた。
足利美術館や渋谷の松濤美術館で開催された
吉増剛造展のカタログが買えたのが嬉しい。
そういえば、群馬にある大川美術館では、
松本竣介の長期に渡る回顧展が開催されているけれど、
群馬はなかなか遠いですね、やっぱり。

もう少し、恵文社の話を続けます。

もちろん、
たとえばジュンク堂に平積みになっているような本もある。
でも、その大半は、ああ、こんな本があるんだというような
さまざまな分野のセレクトされた本が並んでいる。
そして、その中のいくつかは、
古い木製のショーケースの奥に収まっているんです。
最近はネットで本を注文することが多いので、
本の持つこの物理的な触感が懐かしい。
曇り空の午後に行ったせいか、店内は暗く、
要所要所にクリプトン球の電灯が付いていて、
落ち着いて本を探すことができるけれど、
老眼が手放せない僕としてはいささかつらいものがあった。でも、
ちょっと幸せな時間だった。

恵文社を出て、とりあえず出町柳まで出て、
それから、ジャズ喫茶のYAMATOYAまで。
大音響が苦手の連れが一緒だったので、
スピーカーの前には座らず、店内の奥に陣取って
恵文社で買った鶴見俊輔の本を読み上げた。
ページをめくる速度が格段に落ちたことを改めて確認。
たぶん、体力が落ちたせいだろうな。
ヤレヤレである。

年末に、旧劇団員に約束した台本の締め切りは
1月いっぱい。
中旬までは本業が忙しかったけれど、追い込みを掛けた。
本日、第1稿、完成。
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風通信170

2018/11/28(Wed)
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来年は、2019年です。
ソビエト連邦が崩壊してから
30年の年月が経ったということだ。
それは、社会主義の壮大な失敗だったと思うけれど、
だからといって、
マルキシズムが誤りであったとは言えない。

なぜ今頃、マルクスの話かと言えば、
先日、NLT2018の、『ヤング・マルクス』を見てきたからです。
ロンドンに新しくできた劇場の柿落とし公演らしい。

いつもながら良くできた舞台だ。
舞台美術、仕掛けも充分愉しめたし、
装置が見せるロンドンの貧民街の雰囲気が良く出ていた。
新作のせいか、珍しくメイキングがあり、
それがインターミッションの後、2幕のはじめにあって、
一気に後半を見せ、美しい終幕へと落とし込む。
良くできた台本でしたなぁ。
まさに若きマルクスの人となりを中心に
テンポ良く話は展開する。
そのカリスマ性と憎めない自己中心性。
(だからこそ、この作品は喜劇となるわけでね)
そんな人物から紡ぎ出される資本論は、
あの時代のあの場所のイギリスだからこそ
生まれたんだろうと思います。
やはり、偉大な思想家で、哲学者なんだろうな。
共産主義とか社会主義とかは後追いの概念化だと分かる。

今回も役者の力を感じました。ヤレヤレ。
どうして、あんなに飄々と演じることができるんだろう。

ただ僕としては、場転の音がちょっとなじめなかった。
演出家の意図は分かるつもりだが、
もう少し、印象的なリフというか、
パッセージのある音が欲しかったという感じ。
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風通信169

2018/11/24(Sat)
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いつものことだけど、冬の夜はシリウスを見つめる。
今年もみることが出来たと思う。言うまでもなく、
来年も見られるという保証はない。それにしても、
今夜も晴れて凍てついた空に美しく輝いている。
君は見ているだろうか。

先日、YouTubeで、
Wolfgang Amadeus Mozart:
Clarinet Concerto in A major, K.622
をチェックした。オケはIceland Symphony Orchestra。
たぶん、これから残り少ない冬の夜の定番は、シリウスとこの映像。
何度も見ることになるだろうと思う。なによりソロがいい。
ソロはArngunnur Árnadóttirという主席クラリネット奏者。
音は素直でとても美しい響きだし、静かな情熱を感じる。
たぶん、Icelandの人なんだろう。
名前を発音できない。ちょっと残念です。

Piano Concertoほどではないけれど、
この曲は僕の定番なので、CDは違う演奏家で
5種類くらいはある。それぞれに良さはあるけどね、
深みは別として、こんなみずみずしい演奏はない。
知的だし、作品に正面から向き合っているというか。
彼女の第2楽章の暖かさは冬の夜に似合う。

今まで自分の道だと思って普通に歩いてきたのに、
いつの間にか、
その道が足元からすっと消えてしまうことって、
人生には往々にしてあるものだ。
そんな時、そんな冬の夜、見上げるのはシリウス。
いつも変わらず、南東の空に静かに瞬いている、僕のために。
そして、君のために。
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風通信168

2018/10/22(Mon)
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備忘録というか、自分に対して追い詰めたというか、
とりあえず、先日、次回公演のことを情報として流した。
そう! 書いた以上は止めたとは言えないですもんね、普通。
一応、真っ当な社会人としての在り方からして。
『リア王』の時は、台本書くのに三ヶ月はかかったから、
今回も最低それくらいはかかるだろうと思うなぁ。
今度の芝居、中心になる男性と女性、実は・・・、
この人たちに演ってもらいたいと決めているんです。
その人たちでなくちゃ、できないとまで思っている。
男優とは先日、たまたま会ったんで、
「これこれなんやけど、演ってくれん?」と言ったら、
即答で、OKをもらったから嬉しかった。
女優はまだ話せていない。ヤレヤレ。だけど、
ここまで引き延ばしたんだから、ゆっくりと創ります。
キャストについて決まっているのは、その二人と、あとは、
公演が決まったら是非呼んでほしいと言ってくれた女優がひとり。
出演者がけっこうな数になりそうな作品だから、ちょっと心配。
集まらなかったら、そのときはその時考えようっと。
年末に向けて旧メンバーと飯でも食べながら、相談しようか。
矢野と、川中はスタッフワークをしてくれるだろうか(が)。
「か」と「が」の差は意外ほどは大きいですね。
これだけ不義理をしているとなぁ・・・。

この半年、たくさんの音楽を聴いたし、たくさんの映画を観た。
そして、たくさんの国内外の戯曲を読んだ。
だけど芝居はほとんど見ていません。
自分の頭の中で上演されている芝居を見るのが精一杯でした。
ただただ、ブーメランのような仕事場と自宅の単振動。
友だちからも恋人からも、もぅいない人と思われている。
それはそれでちょっと淋しかったりする。
淋しさには名前がない。でも、なかば自業自得で、笑い話。
それにしても、昨日今日と夕暮れが美しい。
オレンジ色の斜めの光に照らされた
暖色系の色あせた木々、そして高い空で輝く銀色の雲。
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風通信167

2018/06/01(Fri)
風通信 |
僕の「NTL2018」はデヴィット・ルヴォー演出の
『ローゼンクランツとギルデンスターンは死んだ』からはじまった。
堪能しましたね、やっぱり。
台本も演出も素晴らしいけれど、なにより役者が巧い。
この本は昨年の11月にシアター・トラムで上演されていて、
僕はその時『24丁目の桜の園』を観る予定にしていて、
残念ながら、日程が被っちゃったのだったなぁ。
やっぱり、東京はせめて2泊くらいしないとなと。
それにしても、イギリスのオーディエンスは素晴らしい。
あんな不条理劇を、老若男女が愉しんでいるのです。
なんか、伝統が違うよなと思った次第。
来月はピーター・シェーファーの『アマデウス』だ。
これも楽しみである。

アントンの、「本」がやっと絞られてきた。
詰めをはじめると、同時に、
そろそろキャスティングをしたい。
出てくれる役者がいるかなぁ・・・。
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風通信166

2018/05/13(Sun)
風通信 |
久しぶりの何も予定もない土曜日の午後だったので、
まあ、こういうときにこそ、
「積ん読」だけの何冊もの本を開けばいいようなものだが
ついつい、今のところ、そこそこ頑張っている
SB(対日ハム)の試合をTV観戦してしまいました。
両チームともはじめこそ活気があったのだけれど、
中盤から停滞気味の試合で、
ずいぶんと消化に悪い試合だったですね。
SBは交流戦前はだいたいこんなもんかな。

TVを見ていて驚いたことがあった。
表の攻めがスリーアウトで終わると、
当然攻守入れ替えになりますね、
その間にTVCMが入るわけです。その長いこと!
CMが終わり、試合に転換した時には、
攻撃側の一人目のバッターの結果は出ていて、
バッターボックスには、
すでに二人目のバッターがいるという次第なんですね、これが。
はじめ、よく理解できずに、
CMが長いなぁとは思っていただけなのだが、
まさか、次の攻撃の一番バッターの結果を
見せないということがあるとは思わなかった。
これ、驚きじゃないかなぁ。普通なのかしら。
試合を見ているのではなく、
まるでCMの間に試合を見ていると錯覚しそうでした。
別の時間帯では、CMが終わって、
15秒くらい、試合を見せて、その間、アナウンサーは
「今日はSBと日ハムの試合をお送りしています」といい、
また、CMが出されたりした。
なんだか、バカバカしくなってスイッチを切ったけれど、
おそらくTV局も経営的に苦しんだろうけれど、
なんというか、僕には、これは、
やっぱり視聴者を馬鹿にしているように思えるのですね。
そりゃないだろォと言いたくなる。

知り合いの若い友人が
静岡の地方局でディレクターをしていて、
直接聞いた話だけれど、ドラマ予算がなくて、
なんと彼の自宅の部屋を舞台に撮影したことがあるという。
まあ、臨場感もあってそれなりによかったというのが、
彼の見解なんだけれど、どうなんでしょう?
在るモノに合わせて脚本も変えるのか? 
という野暮な質問はしなかった代わりに、
そりゃ、シマえてるなぁというのが僕の見解で、
そんなことしていると早晩、
TVの世界も終焉を迎えるよなぁと呟いたら、
もしかしたら、終わってるかもしれませんねぇと
その場にいた別の友人が答えてくれた。
いつ見ても同じような芸人ばかりがひな壇に座って、
およそ、痴性的な言説を垂れ流してばかりいるしね。

先の話に戻るけれど、
病気かなにかで家から出られない人がいてね、
強烈なSBのファンとする。今日の放映が、
彼が唯一楽しみにしているTVの放映だとする。
ちゃんと見せろよ、と言ってはいけないのだろうか。
きっとそういう人のことは考えないんだろうな。
つまり、自分たちの都合ばかりの、身勝手な、
突き詰めて言えば、想像力の欠如とは言えませんかねぇ。
嫌なら見なければいい、とは、まさか言わないだろうけど。
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風通信165

2018/05/04(Fri)
風通信 |
昨日、今日と、「博多どんたく港まつり」です。
一度だけ出かけたことはあるが、それっきり。
この両日は基本的に、街へ出ない。
もちろん、素人演者として演舞場で踊ることもしない。
例年のことだが、公称、200万人の人出だという。
最終日の今日は、「総踊り」ということで、
「どんたく囃子」をみんなで(飛び入りも含めて)踊りながら、
パレードをするらしい。
らしいというのは、よく知らないからだ。

そもそも、みんなで一緒に踊るというのが、
よく分からないし、あまり好きではないのです。
当然、近年の「よさこい祭」(よさこい踊り)は、
すでに好きでないどころか、嫌だなあと思うのですね。
あの無我の境地の踊り手たちがちょっと恐いのだ。
「ファシストは澄んだ目をしてやってくる」みたいな怖さ。

「港」といえば、福岡市内に、「港」という町名がある。
大小の漁船や運搬船なんかが係留されている港町だ。
そこは大好きな場所で、
ときどきその近辺の駐車場に車を置いて、歩くことがある。
西公園の山の麓に沿った道路の商店街から
細い路地を抜けると、海の匂いがして、港がある。
「かもめ広場」と名付けられたパーキングには、
いつだって何台かの車が駐まっていていて、
少し汚れた軽トラックやバンばかりで、いわゆる高級車はない。
そういう車は、天神方面への抜け道となっている
広場の横を走る短い道路を過ぎていくばかりだ。
今でこそ、区画整理が進んでいて、
それなりに小綺麗な町となっているけれど、
むかしは戦前から残っているような古い建物が多く、
雑草の生えた空き地もあった。
そこには、使い道の分からない、
何年も雨に打たれて半ば朽ち果てたような船舶用具が
放置されていて、たいていは猫が日向ぼっこをしていた。

いま、瀟洒なラブホテルが建っている場所には、
遠いむかし、「かもめホテル」という古い小さなホテルがあった。
遠洋航海の船乗りが泊まる宿です。
僕の父親は船乗りで、僕が生まれてからは、
福岡からの定期航路の乗組員になっていたが、
昔の同僚で遠洋航海に出ていた人が何人かいたのだろう、
夕闇が染まる頃に、僕を自転車の荷台に座らせて、
彼らに会うために、ときどきだが、ホテルに行っていた。
半ズボンとランニングシャツという出で立ちを覚えているので、
たぶん、夏場が多かったんじゃないかな。
そして、きっと父親はまだ再婚していなかった。
ホテルにはなんでもかんでも笑い話にしてしまうおばさんや、
綺麗なお姉さんや、痩せたお兄さんがいて、
「坊や、花札しようか」などと言って、よく遊んでくれた。
飲み物は決まって三ツ矢サイダーだった。
まだ、コカコーラはなかった時代だ。
ホテルの壁は薄汚れていて、電球は白熱灯で、
今にして思えば、粗悪だったのだろう、
窓ガラスから見える何本もの船のマストは
枯れそうな植物の茎みたいにゆがんでいた。
みんな共和的に貧しかった遠い昔の話だ。

みんなどこへ行ってしまったんだろう。

懐古しているつもりはないんだけど。

町は街になり、小綺麗な通りになった。
雨が降るとぬかるんでいた通りはアスファルトで固められ、
雑草の生える余地もない。
車は通り過ぎるだけだし、
日向ぼっこをしていた猫もほとんど見かけない。
でも、なんだか、僕らの時代は、
生身の人間の尺度で測られていた時間や空間が
決定的に失われたのではないかと思うことがある。
オシャレなカフェや、
高い天井を持ったエントランスのある商業ビル。
おそらくそれが進歩というものなんだろうし、
僕もそれを享受し、否定するつもりもないけれど、
ときどき、僕らは遠くまで来たんだなぁと思うのです。

昨日、今日と珍しく晴天に恵まれた「どんたく」だった。
たくさんの観光客が訪れたことだろう。
福岡市では2020年までに、ホテルが33棟開業するらしい。
日本を訪れる東南アジアや欧米の客を取り込む目論見らしい。
なんの疑いもなく、すべて、経済。経済指数に体温はない。
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風通信164

2018/04/27(Fri)
風通信 |
去年の今日も、同じような日だった。
晴れ渡った空は初夏を予感させるようだった。
静かに、静かに人は去って行ったのだった。
哀しみよりも、
その穏やかさがなによりありがたかった。

今日は鴻巣山の霊園へ。
三十年近く、毎月通っているのに、
今まで一度として気付かなかったことがある。
そこに大好きな花を見つけたのです。
大好きなのに、名前を知らない。
真ん中が黄色で、周りが白い花弁。
花弁の数は多くないから、ヒナギクじゃないだろう。
マーガレットというのかなぁ・・・。
細い茎の上にスッキリと一輪だけ花を付けている。
一本だけ見つけて、視線を上へ移すと、
柔らかな芝生の坂に、
天国からの贈り物のようにいくつも咲いている。
それが、午後の陽射しの中で、
てんでに揺れているのだった。

近くを見ることも大切だけど、
ときとして、人は、
遠くを見つめなきゃ、いけないんだよね。
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風通信163

2018/04/22(Sun)
風通信 |
僕は楽器が弾けない。
学生の頃、
アコースティック・ギターは少し爪弾いたけれど、
わずかなコードと、簡単なアルペジオを覚えただけで、
それ以降、触ってはいない。
一度、ブルースハープをしようかと思って、
とりあえず「C」調のものを一本購入したけれど、
どこかにいってしまった。
何か楽器が出来たら、いいだろうなと思う。

「手風琴」というものがある。
いわゆるアコーディオンですね。
ちなみに、オルガンは「風琴」といいます。
いずれも、いろんな音のする風を作り出して、
それを組み合わせて弾く楽器だ。
その親戚にバンドネオンがあり、その習得の難しさから
「悪魔の楽器」と言われているそうだ。

寺山修司に
「海を知らぬ少女の前に麦藁帽のわれは両手をひろげていたり」
という有名な短歌作品がある。
この少女は、おそらく長期療養中なのだろう。
そして、そのベッドサイドで、不器用な少年は立ち尽くす。
現実の行為というより、イメージの作品のような気がする。
言葉の二律背反ですね。
でも、確かに言葉は全能ではないのだ。

今日のような穏やかな春の日の午後。
空を渡る風を感じながら、
ぼんやりと霞んだ水平線を前にした砂浜で。
缶ビールを片手に、君と座ったままで、
何の役にも立たない、つまらない話をしてみたい。
僕が「手風琴」を弾けたなら、
少女の傍らで、ひとつひとつの音を確かめながら、
言葉にならない言葉で、話していたい。
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