ニュース・日記

ニュース・日記

風通信163

2018/04/22(Sun)
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僕は楽器が弾けない。
学生の頃、
アコースティック・ギターは少し爪弾いたけれど、
わずかなコードと、簡単なアルペジオを覚えただけで、
それ以降、触ってはいない。
一度、ブルースハープをしようかと思って、
とりあえず「C」調のものを一本購入したけれど、
どこかにいってしまった。
何か楽器が出来たら、いいだろうなと思う。

「手風琴」というものがある。
いわゆるアコーディオンですね。
ちなみに、オルガンは「風琴」といいます。
いずれも、いろんな音のする風を作り出して、
それを組み合わせて弾く楽器だ。
その親戚にバンドネオンがあり、その習得の難しさから
「悪魔の楽器」と言われているそうだ。

寺山修司に
「海を知らぬ少女の前に麦藁帽のわれは両手をひろげていたり」
という有名な短歌作品がある。
この少女は、おそらく長期療養中なのだろう。
そして、そのベッドサイドで、不器用な少年は立ち尽くす。
現実の行為というより、イメージの作品のような気がする。
言葉の二律背反ですね。
でも、確かに言葉は全能ではないのだ。

今日のような穏やかな春の日の午後。
空を渡る風を感じながら、
ぼんやりと霞んだ水平線を前にした砂浜で。
缶ビールを片手に、君と座ったままで、
何の役にも立たない、つまらない話をしてみたい。
僕が「手風琴」を弾けたなら、
少女の傍らで、ひとつひとつの音を確かめながら、
言葉にならない言葉で、話していたい。
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風通信162

2018/04/07(Sat)
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言葉は不自由なものだ。
想いをどれだけ尽くしても、
届かない。届かないどころか、
言葉を尽くせば尽くすほど、
その分だけ、
ますます想いから遠く隔たってゆく。
語り尽くせない。
だから、紋切り型の定型で。
「ご自愛下さい」・・・万感の思いを込めて。

人との出会いも似たようなものかもしれない。
会えば会ったで、会い尽くせない。尽くしきれない。
だから、会わなくてもいい。それどころか、
会わないことの方が、
いま目の前にいることより大事なのだ。
万感の想いを込めて、
ぼくのなかにあなたはいる。
あなたのなかにぼくはいる。
そう信じられるのだから。
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風通信161

2018/03/31(Sat)
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プロ野球が開幕しましたね。
わがソフトバンクも渋く勝利して、まずは1勝。
この積み重ねの果てに、もう1頂!が来る(笑)
(分かる人には分かるKWです)
昨日はMLBも開幕しました。
エンゼルスの大谷が初打席初ヒットだって。
その大谷の話から、
過日、友人の原クンと焼き肉を食しながら
盛り上がった。

原(以下H) だいたい、あの顔が好かんのだね。
僕(以下B) どこが?
H いや、あのドヤ顔。フィギュアスケートの羽生と同じ顔でさ。
B なるほど。でも、実績あるんだから、仕方ないんじゃない?
H いや、実れば垂れる稲穂かなってね、言うだろ?
  The boughs that bear most hang lowest. という諺が英語圏にもある。
B でも、年齢が年齢だから。致し方ない。
H 藤井聡太を、見ろよ。年齢とは関係ない。
B スポーツと将棋を比べたら・・・。
H うん、そ。・・・そのフィールドの広さというか、
  マスに見られているというか、分かってるんだよ。
  だから、あんな顔ができる。僕ってスゴイでしょ? って。
B でも、確かにスゴイじゃん。誰でも出来ることじゃない。
H たまたま、そう生まれついただけでね。もっと謙虚にならなくちゃ。
B あそこに行くまではそれ相応の努力はしてると思うよ。
H 努力? でも、誰でもが大谷になれるわけじゃない。
B それでもだよ、
  彼らの努力は認めなくちゃな。結果は結果として認めるやろ? 
  君だって。
H それと顔つきとは関係ない。
対他的存在じゃないんだよ。対自ばかりでね。
B それって、古くない?
H まあ、サルトルだしね、確かに。
  んで、顔つきと言えばさ、松本人志の顔も嫌でね。
B 誰?
H ダウンタウンの、芸人だよ。
B はぁ。(H、ここでスマートホンで画像を見せてくれた)
H この顔、嫌と思わんか?
B まあ、汚い顔ではあるな。
H いや、貧しいね、この顔。
B 顔に責任はないやろ。
H いや、ある。40過ぎたら自らの顔に責任が生じる。
B ああ、リンカーンだった?
H そ。今どき、彼は芸人界のご意見番だそうな。
B ご意見番?
H 彼の漏らした感想がネットで拡散して、賛否両論。話題になる。
B まあ、このご時世だな。
H 芸人というのはさ、そもそもホスピタリティの存在なんだ。
B なるほど。夢路いとし、こいしとか、ダブルけんじとか。
コロンビアトップ、ライトは面白かった。
H ・・・それって、古過ぎやろ。
B いや僕、好きだったもん。あれで笑い過ぎて泣くという経験をした。
僕にとって古いのは、アチャコ、エンタツ。
H おまえ、話にならん。ま、確かに、
  あの頃の芸人の話芸はホスピタリティがあったな。
  偉そうなことをいわなかった。
それが、たとえば松本なんか、偉そうに言うんだな。
しかも、それをありがたがるマスコミ、というか大衆。
B 大衆ってさ、そういうもんなんじゃない? 
  自らの判断はとりあえず横におくというか。
H いや、もともとそんなもん、ないんだよ。
B そんなもん?
H あ、自らの自律的な判断ね。
B そりゃ、言い過ぎだろ。
H いや、そうだね。ちゃんとオルテガは早くに定義している。
B オルテガ・・・。
H そ、オルテガ。・・・主客転倒してるんだな。
  つまり、本来、主人を笑わせるはずのお笑い芸人が、
まるで主人のようになっている。
B ホスピタリティというわけか。
H ああ、そういうことだな。よくTVで、コメントしてるだろ。
B ああいうの、ひな壇芸人って言うんだって。
H ひな壇? なるほど。芸とも呼べない芸の垂れ流しだよな。
B まあね、だから飽きられたら、すぐ捨てられる。
H あのひな壇だって、結局は自己完結の構図。
B ん?
H 自分たちの世界でじゃれ合っているだけだろ?
  そこには、TVを見ている我々の、
  他者の視線というものがない。

話し好きの友人と食事に行くのは考えものだ。
彼らは、一様に、よくしゃべり、よくたいらげる。
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風通信160

2018/03/27(Tue)
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春の選抜高校野球が始まった。
僕は、ソフトバンクの試合はときどき見るけれど、
野球観戦がそれほどすきなわけではない。
だから、高校野球だからといって、
それを見ることはほとんどない。
もちろん、プロの野球とは違った魅力があるのは、
認めるんだけれど。

こと野球に限らず、
スポーツは勝つためにやっているはずだ。
しかし、勝たないからといって意味がないとは言えない。
スポーツの最も大事な点は、負けるということだ。
トーナメントの試合では、勝者以外は、
参加者の全員が負ける。そして、いうまでもないことだが、
その勝者もいつかは負ける。
だから、スポーツにおいては、
負けることこそ当たり前の、普遍的なことになるだろう。
そこから、
負けて挫けている他者への思いやりも生まれよう。
オリンピックで、金メダルを取ることは
素晴らしい達成だとは思う。
でもね、僕は、勝つことよりも、
負けることの方が大事な経験なんだよね。
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風通信159

2018/03/17(Sat)
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3年ほど前のことだが、2ヶ月ほど、
よんどころない事情で藤崎に住んでいたことがある。
市営地下鉄の藤崎駅から3分ほどのマンションだった。
202号線と原大通りが交差する早良口に面していて、
両方とも広い道路だから、夜間でも車が走る。

舞台の稽古が終わって帰る時刻でも、人通りがある。
このことがなんだかとてもいい感じだった。
その2ヶ月を除けば、ずっと同じところに居住している。
この住まいは玄関のドアを開けると目の前に室見川が流れていて、
豊かな水の傍らという立地は、すごく気に入ってるんだけど、
午後9時も過ぎると、ほとんど人通りも絶えてしまうという住宅街。
静かな夜のとばりが降りるだけなんですね。
それはそれでなんの不足もないんだけれど、
あの藤崎での生活は、妙に心地よいものだった。

僕は、18歳から28歳まで東京に住んでいた。
何ごともなければ、あのまま東京にいたと思う。
嫌いではなかったんですね、あの街が。
なぜ好きだったかというと、
たぶんそれは当事者回避の位置にいられたからだと思う。
つまり、観察者。
それと、孤独感。このふたつ、
まあ、似たようなものでもあるし、同時に、
まったく別物と考えられないこともないですね。

本当の孤独は人混みの中にこそある。だから、
都会にこそ真の孤独があるというのは、
シャルル・ボードレールが
つとに指摘したところだったと思うけれど、
その片隅で、他者と無関係に、
静かに人知れず生きていくというのは素敵です。
都会ではそれが可能になる余地がある、
というか、それが都会という存在なのだろう。
それで、思い出したけれど、
高校生の時に、
岡林信康の『俺らいちぬけた』の冒頭のフレーズに
強く惹かれた記憶がある。
たぶん、原点の一部分を占めている感覚なんだろうな。

僕は、分析家ではないから、
この嗜好(あるいは志向)が、どういうものかよく分からないけれど、
人混みの中で無名に生きることがいいと思うのです。
もちろん、舞台を創るという意味では、
僕にだってそれなりのナルシズムや自己顕示欲がないわけではない。
でも、比較的乏しい方だと自己分析している。
(まあ、往々にして自己分析って間違いが多いものですが)
そもそも、こうした日記を書くこと自体、どうなの?
と突っ込みを入れたくもなりますが。
要するに自己への執着は少ない方だと思う。その意味では、
それがもう少しあれば、
もっといい作品が出来ただろうと思うこともある。

僕は、いまでも天神に行くと、
たとえば福ビルのシアトルズ・カフェのテラスで、
カップになみなみと注がれたカプチーノを飲みながら、
通り過ぎる人を見るのが好きだ。
ひとりひとりが人生を背負って歩いている。
そのあれやこれやを想像し、
それがどんなふうに身体に形象化されているか。
つらつらとそんな思いを広げるわけです。

と、ここまで書いて、
自分でもある程度は分かってはいるんだけれど、
すごくシンプルに言えば、
わがままで、身勝手な人間なんだな、俺は。
「そ、要するにィ、ほどほどのお金があって、
好きな本を読んで、好きな音楽を聴いて、
好きな映画を観て、それ以外のことは
どーでもいいのよ、あなたは」と、彼女は言う。
やれやれである。

なんか、東京に行きたくなったなぁ。
そこに行くと、
素敵なガールフレンドが待っている。
・・・ような気がするしね。
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風通信158

2018/03/11(Sun)
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今日は、3.11。
あれから、7年の歳月が流れた。
あの日、目の前にあったのは、
僕の想像力や、認識能力を遙かに凌駕するほどの、
すさまじい自然災害だったのを思い出す。

なくなった人々のご冥福を祈りたい。
と同時に、
愛しい家族や、友人を失った人の哀しみを思うと、
胸が痛む。

あれは、天災と人災の記憶だ。

天災は、「時」が救済してくれる部分がある。
復興という言葉があるように、
道路は修復され、家屋は建て直されるだろう。
この列島に生き続けた僕らの先祖は、
そのようにして生きてきたはずだ。

人災もまた、本来なら救済されるべきだろう。
しかし、
いまだに「原子力発電」を目論む電力会社があり、
そのことに異議を申し立てる国会議員はおらず、
国民不在の政争に明け暮れるばかり。

僕らは遙かな子孫に何を残せるのだろう。
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風通信157

2018/03/10(Sat)
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2年ほど前、職場のでの環境が変わったのを機に、
車を、それまでの「オペル」からホンダの軽自動車に換えた。
免許取り立ての半年間、スズキの2気筒に乗った以外は、
アメリカ車、イギリス車、ドイツ車と外国産の車ばかり乗っていた。
僕はどちらかと言えば、
ローリスク・ローリターンの収入の、しがない身なんだけどれど、
日本車の、至れり尽くせりのご親切は、
今ひとつ、車を走らせる面白みが感じられなくて、
家族のここよからぬ心情はともかくも、
経済に見合わない車ばかり乗ってきたのです。

維持費のことも考えて、軽自動車に買い換えたのだが、
母親の病院の送り迎えのこともあり、
4ドアのゆったりした車を前提に探して、
買ったのが「N・BOX/(スラッシュ)」だった。
この車は、なぜこんな軽自動車を作ったの?
と思われるような妙な車で、車内に
低音域用に17センチのバックロードホーン型の
ウーハー・スピーカーがひとつ、
それから、同じく中音域用の17センチのスピーカーが4個。
さらに、アルミドーム型のツィーターが4個。
計9個のスピーカーが標準装備してある。
もう、それはコンサート・ホールです。
セロニアス・モンクの息遣いやら、バド・パウエルの呻き声やら、
が、すさまじい臨場感で迫ってきた。
ジェシー・ノーマンのドラマティコなソプラノは、
ミラノ・スカラ座で聞くような感じでした。
(あ、念のため、僕はミラノ・スカラ座に行ったことはありません)

だから、それはそれで満足していたのだが、
先月、突然、車を買い換えようという気になってしまった。
もちろん、軽自動車です。
けばい女性に惹かれる男性は、死ぬまでけばい女性に惹かれ続ける。
問題のある男性に惹かれる女性は、同じように
死ぬまで問題のある男性に惹かれ続ける。人の趣向というか、好みは
一生涯変わることはないような気がする。
車の好みも、わりとそれと近いものありそうな気がしますね。
僕は、もう、文字通りの爺ちゃんなので、
ジイさんが乗るのに、ある意味、適した車を選んだつもりだ。
新しい車は納期にあと2ヶ月かかるらしい。
僕は、メガネを1年に一回は買い換える。
そのたびに、メンバーの栃原が、
「今度はどんな女の子と付き合ってるんですか?」
と十年一日のように尋ねる。
車を換えたことを知ったら、きっと訊くだろう。
「今度はどんな女の子を乗せるんですか?」
現実的ではないにしろ、しかし、
そう尋ねられることは、けっこう名誉なことですね。
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風通信156

2018/03/05(Mon)
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いやぁ〜、ほんとに今回は、僕としては、
長い・・・というか、
長かった。相当危うい状況に落ち込んでいました。
いま、少し回復途上。

その場所に、
ひとりで行ってひとりで帰ってきたような。
僕は、もう長く生きないかもしれないなぁ。

芝居の準備も、それなりの型(スタイル)があるわけで、
先日までは、すごく無責任な言い方にはなるけれど、
そんなこと、どうでもいい、とか思っちゃってね。
こんな僕でも、
待ってくれている仲間がいるし、
もちろん自分のためにもなんだけど、
そうはいかない。大丈夫。

で、なにをやっていたかというと、
もちろん、なにもやっていない。
一応、どうにか、仕事にはいけましたな。はは。
そういえば、なぜか夏目漱石の俳句を繙いていましたね。
とりあえず、気に入ったのは、次の二句

〜寝てくらす人もありけり夢の世に〜
〜菫程な小さき人に生まれたし〜

今宵の風は春の風。
そういえば、

〜吾妹子を夢見る春の夜となりぬ 〜

というのがあったなぁ。
初句は「アギモコ」と読む。恋人のこと。
・・・万葉ですね。・・・つまらない知識。
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風通信155

2018/02/25(Sun)
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去年だったか、ある日のこと、
ふと、「生きる気力」が自分の中で、失われているなぁ、
と感じることがあった。
「生きる気力」というものがどういうものであるか、
説明するのは、とても難しい。
アルチュール・ランボーが貿易商人として
死ななければならなかったのをうまく説明できないように。
(あえて言えば)その「気分」は、すぐに消えちゃったけれど。
でもそれから、ときどき、排水溝の泡沫のように、
心の中に浮かんでは消える。

芝居を再開しようと思った。

ところが、
2月に入ってしばらくして、突然、自分の中で、
「生きる気力」が失われつつあると感じ続けていた。
自己分析すると、かなり、重症です。
そんな中、昨日、
久しぶりに若い友人たちと一席を囲んだ。
若いといっても、すでに50の声は聞いている。
誰もがそうであるように、50年も生きると、
生まれたばかりの赤ん坊のままいられるわけがない。
口には出せない、あれやこれやを抱えたまま、
日々を彼らは自分に与えられた場所で生きている。
僕のような口舌の徒ではないので、
いわゆる談林風発というわけではないが、
この30年人生意気に感ずという付き合い方をしてきた。
年齢差もあり、経験も違うが、教えられることも多い。

2月が逃げる、3月は去るという。
早く、春にならないかな。
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風通信154

2018/02/17(Sat)
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平昌オリンピックも半ばを過ぎましたね。

冬季のオリンピックの競技の中で、
時間が合えば観戦するのは、
カーリングです。男女ともに面白い。
戦術の予想をしながら見ます。
今回、男子は惜敗気味。
まだ、この先スウェーデン、カナダと、
強いチームとの試合が待っているので、厳しい状況。
女子の方は、今日の午前中、韓国に負けたものの、
夜のロシアとの試合に勝ったので、
現在の調子を維持すれば、
準決勝ラインには到達するでしょうね。
頑張ってもらいたいものだ。

見てはないけれど、フィギュアスケートでは、
羽生結弦が、2大会連続の優勝だって。
どこぞの誰かが、
きっと国民栄誉賞の準備をしているよね。
ヤレヤレ。
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風通信153

2018/02/16(Fri)
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最近の若者が本を読まないと言われて久しい。
大ベストセラーという話もとんと聞かないし、
出版事業も厳しい状況だという。いわゆる出版不況ね。
しかし、本当に本を読んでいないかというと、
実はそれほどでもないと思えるんですね、僕には。
なるほど、いわゆる純文学なるものは
たしかに、売れていないみたいだし、
読まれてもいないのかもしれないですね。

それほどでもないというのは、
ライト・ノベルは、
一時期のケイタイ小説ほどでもないけれど、
読まれているんじゃないかと、
なんとなく感じているからである。

半期ごとの芥川賞の発表はニュースでも取り上げられるし、
村上春樹の小説が出れば、本屋で単行本が平積みされる。
でもですね、たとえば第1回の芥川賞受賞作、
石川達三の『蒼氓』という作品を読む若者は
皆無といえないまでも、ほとんどいないんじゃないだろうか。
いや、そもそもです、泉下の石川さんに申し訳ないけれど
「石川達三」という名の作家を知っている人が
若者の中にいるとも思えないのですね。ということは、
「石川達三」なる文学者は彼らの中では存在していないことになる。

僕は、フェイスブックもしないし、
ツイッターも、そしてラインもしない。
だから、そういうものがこの世にあることを
知識としては知っているんだけれど、
存在はしていないのと同じことなのです。
そういえば、NHKの報道番組でよく目にする、
画面の下の方に存在する一行のコメント、
あれがツイッターなのかしらね、
あれ、究極の自己満足じゃありません? 
いやいや、もしくは共感の極地とも言えるかもな。しかし、
僕のような年寄りは、
それを読まされてもねぇ、といつも思います。
そもそも、こういうことを書くこと自体が、
すでにどうしようもないオヤジなのでしょうが。
願わくば、同調圧力だけは止めて欲しいなぁ。

話がそれました。

少なくとも、僕の中では、その良し悪しは別として、
「石川達三」は存在している。
つまり、すごく単純化して言えばですね、
僕の現実的世界と、若者の現実的世界は違うわけで、
見えているものも、たぶん違うんじゃないかと思うのです。
村上春樹の『18Q4』の世界ですね、これは。
タイムスリップ。
おなじ空間で呼吸し、同じ時間で行動しているにも関わらず、
別世界に生きているという事実。
どちらが本当の現実か、なんてナンセンスですね。
きっとどちらも現実で、リアルなんだな。
さらに言えば、その現実はどちらも正しく、正当なんですね。
だから、近頃の若者は、とかは言うまい。
まあ、昔からそうものだった、
と識者は言うかもしれないけれど。

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風通信152

2018/02/10(Sat)
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オリンピックが始まりました。
日ごろ見ることのない競技種目が見られるのは、
やはりそれなりに興味深い。
TVのスイッチを押すことが多くなりそうです。
開会式はチラッと見ましたが、あれって、なんでしょうね。
演出というのかなぁ・・・、やっぱり。
オリンピックごとに
いろいろ工夫してはあるんだろうけれど、
そのスタイルはいつも同じ。
もっとも、広いセンターステージを使うとなったら、
同じようなモノにならざるを得ないのでしょう。
同工異曲。それぞれの国の文化や歴史を謳い込む。
国民国家の概念から一歩も出ていないし。
それにいちいち感動を装う解説者とか、 
アナウンサーの言葉もうるさくて仕方がない。

2020年の東京オリンピックの開会式も
きっと同じようなモノになるんだろうな。
もう、準備は始まっているはずだし、
電通か博報堂のような広告代理店ばかりが
結局のところ、
国税を取れるだけ取るような経済構造なんだろうと思う。

スポーツそのものは
知性よりいちはやく感情に訴えるという意味でも
とても分かりやすいものだから、ドラマも造りやすい。
そのことの是非は、まあ、どうでもいいんだけど、
たかだか、3分くらいの競技を見るために、
TVは延々とコマーシャルを流すわけで、
まるで、CMとCMの間に競技が挟まっているみたいで、
なんだか、本末転倒のような気もする。
競技のTV放映は、
もっとシンプルにならないものかなぁとつい思ってしまう。
選手がこのステージに立つために如何に努力してきたか、
などというドキュメンタリーを見せられてもね。
だって、誰だって、自分の領分においては、
彼らなりの精一杯の努力をしているはずなんだから。
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風通信151

2018/02/07(Wed)
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今日は午後から、陽射しが眩しかった。
空気はカンカンに冷えていて、まるで
チェーホフの作品に出でてきそうなコバルト色の空。

昨日の福岡は、雪の朝。
勤務先で、重要な業務があるために、
遅刻、欠席は許されない。

行きましたよ、車で。

僕の住まいは、
100メートルくらいの川幅の河畔だし、
海からも2キロくらいしか離れていないので、
ほとんど路面に雪は溜まらずの状況だった。

勤務先は、
中腹とは言えないまでも、
小高い山をちょっと登ったところにある。
積もってましたね、10pくらいは。

とりあえず、麓までは行けた。そして・・・、
坂を登ろうとした時、タイヤが
ゴツン、ゴツンと音を立てて、横滑りした。
シフトをドライブにしていたにもかかわらず、
突然、サム・ペキンパーの映画のハイライトのように、
ゆっくりと、
そう、スローモーションで後方に動き出した。
ヤバイ!(と本来はこういうときに使います)
で、とりあえず、なんとか止めて、
気合いを入れて慎重に歩道に乗り上げることにした。
そこで、ストップ。
雪は降り止まず、あとからあとから降ってくる。
車から降りて、さて、どうしたものかと思案橋。
その横で、ワシャワシャと音を立てて、
車が何台もゆっくりと通り過ぎてゆく。
ちょうど、その時バスが通過した。
思わず、バスの乗客と思わず目が合う。
そこにいたのは、
勤務先の上司、というか、トップでした。
彼は、なぜかニコニコしながら僕を眺めて、通過してゆく。
ヤレヤレである。
僕は、ハイハイと自分自身に相づちを打ち、
まあ、捨てよう!とあっさり乗り捨てることにした。
後で取りにくればいいと。

サクサクと音を立てて、雪道を歩いて行った。

帰りは、すでに乾いた道路でした。

そういえば、過日の東京の大雪。
六月のガールフレンドから、
帰れなくて、会社でしばらくコーヒーじゃぁと、
メールがあったことを思い出した。
その後、メールはないけれど、無事に帰られたんだろうか。

このところ、
北陸地方では40年ぶりの大雪とか。
きっと、昨日は、
朝倉の被災地も深い雪だろう。

あれくらいの雪で!
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風通信150

2018/02/06(Tue)
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毎年のことだが、この時期に必ず購入する雑誌がある。
まあ、雑誌というか、PR誌なんだけど。
一回書いたかなぁ・・・。
みすず書房のPR誌「みすず」である。
1、2月号は読書アンケート特集。
さまざまな人が、2017年中に自分が
感銘を受けた本を5冊まで取り上げ紹介するものだ。
こんな専門の本が出ているのかと毎回感心する。
一生をかけて専門の領域を追究する人々がいる一方、
よくわからないけれど、面白いことを試みる人がいる。
そして、それを評価し、紹介する人(執筆者)がいる。

たとえば、
『東北おんば訳 石川啄木のうた』という本。
おんばとは、おばさん、おばあさんたちのことらしい。
(ちなみに、パソコン上で「おんば」と打ち込むと
「乳母」と転換されます。)
これは啄木の短歌を土地の言葉に戻してしまおうとする試みらしい。
「きしきしと寒さに踏めば板軋む/かへりの廊下の/不意のくちづけ」は、
「ぎしぎしど寒(さん)みィ板(いた)場(ば)踏んでげば/帰(け)ァる廊下で/いぎなり チュ」
と生まれ変わる。
まあ、だから、なんなの?とか、
ちょっとそれはどうかな?とか、思うことはいろいろあるだろうけど、
この発想には、あえて言えば、
標準語と地域語における表現方法の互換性の可能性など、
膨らむ余地はあるかもしれないと感じさせはする。
そういえば、
津軽方言を使って詩を書いていたのは高木恭造だったなぁ、
と思い出したりする。

たとえば、
ヴァルター・ベンヤミンとグレーテル・アドルノの
『往復書簡 1930〜1940』を翻訳した人がいて、
それを評価する人がいる。
あの時代のドイツ、ユダヤの知識人の
知と精神と魂の共振の輝き。
いったい、何人の人が読み、感慨に耽るのだろう。
アドルノの妻となる女性の書簡は
たしかにちょっと読みたい気もするけど、
たぶん、僕は読まないなぁ・・・。でも、
そういう本があるということを知っただけでも、
生きていた価値がありそうな気がする。
そして、本棚にあるベンヤミンのいくつかの著作集と、
アドルノの伝記の何ページかを繙くかもしれない。

少なくとも、昼休みのちょっとした休憩タイムに、
パラパラと読む雑誌で、これで、2ヶ月は保つ。
300円! リーズナブルである。
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風通信149

2018/02/04(Sun)
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だいたいにおいて、この日記には、
きまじめに自分の思いを書くことはしないと決めていた。
あくまで自分の文章修行(この年でなんだけど)のつもりで、
あることないこと、適当に織り込んで書いてきたんです。
だから、書いた内容にもちろん小さな事実を元にした
大きな創作があるわけでして。ところが、
最近、どうも想いのままにだらだら書いてしまったような、
文章に色気がないような、そんな気がする。
これは良くない。
というわけで、改めて気持ちを入れ替えて、
進めることにしようと思う。
片手で足りるほどだけど、コアな読者もいるので、
僕がどこまでが本気で、
どこまでが調子に乗って好きに書いているのか、
適当に判断して下さい。

とは言うものの、以下は事実です。

先月、演劇活動を再開すると決めて、
さっそく、ひとりの役者に会ってきた。
彼女とは、一度一緒に舞台を創った事がある。
一応、ある劇団に属しているのだが、
彼女の、とりあえず個人としての思いを確かめたくて。
話し終わって、今月は劇団の主宰者に会うつもりだ。
もちろん、客演の了解を得るためです。
男の役者は、まだ会ってはいないけれど、
受けてくれるかどうかは別として、
僕なりの「この人たちと」というある程度の目星が立っている。
我が畏友、岩井は通行人程度の役で出演します。はは。
僕は男が好きなわけではないけれど、
男芝居を創るのが好きだし、個人的には得意だと思うんです。
でもまあ、とりあえず、どうしても彼女には出てもらいたかったし、
彼女からも、
どうしても出たいというオファを昨年来もらっていたので、
即決、決定です。
女性の役者と言えば、一緒に芝居を創りたいと
前々から候補を考えている人が三人いるんだけど、
ひとりは熊本在住で遠いし、
ひとりはよんどころない事情で舞台には立てないし、
ひとりはすごく忙しそうだし、で、
まったくの素人でもいいのかなとも思います。
本が決まっていないのに、と、普通だったら思われるだろうが、
ほら、変な譬えですが、
ご飯は食べたいときに炊かれていなくちゃ食べられないから。
このへんの案配が難しい。

今週は、ちょっとした祝い事で、
旧劇団員と一献を傾けます。
僕の考えを伝える会にもなりそうだ。
みんなから、意見をもらうことにしよう。
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風通信148

2018/02/03(Sat)
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ときどき、『源氏物語』を読むことがあるが、
11世紀の初頭にあれほどの物語が生み出されたということは、
ほとんど奇跡に近いとつねづね思っていた。

ある時、「どこが凄いと?」と尋ねられたことがある。

その時に、どこを取り上げて話したか、
今となっては思い出せないんだけれど、
たぶん、「若紫」の冒頭じゃなかったかと思う。

ここは、光源氏が、はじめて紫の上を見出す、
いわゆる「北山の垣間見」のシーン。
ポイントは、二つです。

ひとつは、紫の上が本文に登場するシーン。
源氏の目を通して情景が活写される。
まるでジャン=リュック・ゴダールの初期の映画のように、
語り手がフレームの外から語りかける。
その上で、紫式部は紫の上をすぐには登場させない。
ふと時間が止まったような印象を受ける。そして、
10歳ほどの美しい(あるいは可愛らしい)少女として
彼女はフレームの中に走りながら入ってくるのだ。
秀逸である。

その直後に、もうひとつの素晴らしい描写がくる。
ここは原文で、
「髪は扇をひろげたるやうにゆらゆらとして」
ね? 僕はこれが凄い描写だと思うのです。

思い出すのが、杉山登志なんです。
60年代に見た彼の資生堂のCMの斬新さ。
印象に残っているのが、
公衆電話BOXを鏡代わりにして、
ルージュを塗る女性。
当時の僕の年齢からすると、
素敵なお姉さんという感じだったかなぁ。
彼女が、舞うようにTVの中で動く。
その時の揺れる髪。
ビダルサスーンが古典的なボブカットを元とする
新しいヘアースタイルを確立したのが1960年代。
まさにその髪型だったような気がする。
揺れる髪・・・、紫式部はあの原稿用紙5000枚に届こうする
長大な『源氏物語』の中心となる女性の登場に、
こういう仕掛けをしたように思えるんですね。
20世紀の美の在り方が、
すでに11世紀に表現されていることの凄さ。
僕は奇跡的なことだと思う。

揺れる髪には個人的な好みもあるかもですが・・・。

ところで、天才の名を恣にして37歳で自死した杉山には、
忘れられない遺書が残っている。
『リッチでないのにリッチな世界など分かりません。
ハッピーでないのにハッピーな世界など描けません。
夢がないのに 夢を売ることなどは……
とても……嘘をついてもばれるものです』
というものだ。

ひたすら豊かさを求めた高度成長期、
そして虚栄のバブルという時を
駆け抜けた戦後の「昭和」という時代。

痛いなぁ。
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風通信147

2018/02/02(Fri)
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僕がはじめて買ったレコードは、
イギリスのロックバンド「アニマルズ」の『朝日のあたる家』だった。
たしか、330円のEP版で、B面はなんだったか、もう覚えていない。

どうして、こういう話をはじめたかというと、
昨年末から、いよいよ収集がつかなくなったので、
CDを整理しはじめたからなんです。
ありましたね、アニマルズ。ちゃんとCDで持ってたんだ。
もっとも、ベスト盤だから、その他の曲も入っているけれど。

ストーンズとビートルズが、
ブラック・ミュージックの影響下でスタートしたように、
アニマルズ、そのバンドリーダーのエリック・バートンも、
黒人ブルースからその音楽履歴が始まっている。
いわゆる「ブリテッシュ・インベーション・バンド」として
アメリカの音楽市場を席巻したものの、
ついに、エリック・バートンとアニマルズは
スフィスケイトされることなく、黒い地点に留まったままで、
UKのポピュラー音楽史のページの中にあるだけだ。
きっと不器用だったんだろうな、彼は。
いや、ブラック・ミュージックを愛しすぎていたのかもしれない。
愛しすぎると愛を失う。
彼が、ブルースの魂を失ったわけではないけれど。
ともあれ、バディー・ホリー以来、
アポロ劇場の舞台に立った二人目の白人という栄誉は消えないですね。

話が思いがけない方向へ行っちゃったけれど、
CDの整理はまだ終わっていない。
UKのバンドが多いロックはどうにか終わった。
ジャズはコンボとピアノ・トリオがどうやら目星がついたけど、
クラシックはほとんど手つかず。
ジャズの次に枚数が多いのになぁ。
いつまでかかることやらデス。
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風通信146

2018/02/01(Thu)
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このところ、日記の更新がなされていない。
空行く雲が風に流されて行くように、
月日が寒さに震えながら過ぎていくんです。
本業の方も忙しかったし、表層的に生きていたわけね。
つまり、本も読まず、映画も観ていないのです。

さて、今日からは如月。

メールも手紙も電話もない生活という。
それがいまのところ、僕の習いとなっている。
うたかたのような思いは浮かぶのだけれど、
そっと自己完結して、安らかな冬の夢に落ちる。
ときどき、面白いメールをくれる友人がいて、
まあ、とりあえず、そういう奇特な人は、
ひとりくらいしかいないわけですが、
昨夜は、久しぶりのメールだった。

「いにしへのしづのをだまきくりかえし昔を今になすよしもがな」

この歌について。

ときどきは、こういう心境にもなりますね。
でも、失われたときは二度とは戻っては来ないんだよなぁ。
この世界にある美しいもののほとんどは、
記憶の中にしか存在しない。そして、
起きてしまったことは、
粉々に割れてしまった番町の皿と同じで、
どんなに手を尽くしても、元通りにはならない。

むかし理由があって別れたガールフレンドと同じで、
思い出すと胸が温かくなる。
でも、逢わない方がいいんだよね、もう元に戻れないから。
好むと好まざるとに関わらず。
たぶん、それが人生というものなんだろう。
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風通信145

2018/01/18(Thu)
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今日、トップページに再結成の件を発表したんだけれど、
具体的に、何が決まっているわけではない。

当初の理念というのは、文字通り「クルー」という発想。
ひとつの芝居にたまたま乗り合わせて、
一緒に果てのない文化の海を渡ろうというのです。
だから、今のところ、とりあえず、団員というのはいない。
ただ、僕が舞台を創るなら創造の現場に参加しますという
声は手元にたしかに届いてはいる。ありがたいことだ。

僕が一般の領域で芝居を創ったのは、『プラトーノフ』が最初だった。
あのときは、およそ一年近い年月を掛けたと記憶している。
僕は無名の演出家だったから、役者のひとりひとりに会って、
時間を掛けて芝居と作品コンセプトを理解してもらった。
そうそう、お金も掛けました(笑)
今回は、それほどお金は掛けられないけれど、時間は掛ける。

福岡の地に演劇の文化が根付くのは困難なことだが、
それでも、アントンの芝居を待っている人が何人かはいる。
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風通信144

2018/01/07(Sun)
風通信 |
帰福した日は穏やかに晴れ渡った陽射しだったけれど、
このところ、十九世紀のイギリス絵画みたいなお天気。
低く垂れ込めた厚い雲が空を覆っている。雪はありません。
むかしは(というとなんだか年寄りじみていますが)、
福岡でも、雪が積もった日が多かったように思う。
寒さは厳しくないので、その多くは淡雪か綿雪みたいだった。
三月に降る忘れ雪というのもありましたね。

雪といえば、亡くなった吉野 弘さんに
『夕焼け』ほど有名ではではないけれど
『雪の日に』という作品がある。
まあ、生きることの哀しみを表現した作品ですね。
合唱曲もあるみたいだけど、今日は原詩の方。

――誠実でありたい。
そんなねがいを
どこから手に入れた。

それは すでに
欺くことでしかないのに。

という冒頭二連の後に、
第四連で、

雪は 一度 世界を包んでしまうと
そのあと 限りなく降り続けねばならない。
純白をあとからあとからかさねてゆかないと
雪のよごれをかくすことが出来ないのだ。 

とその理由が示される訳だが、
若い頃は、そこらあたりで止まっていた解釈も、
年齢を重ねるとおのずから気付くこともある。
言うまでもなく、
「雪」は言うまでもなく「誠実」の読み替えです。


雪の上に雪が
その上から雪が
たとえようのない重さで
ひたひたと かさねられてゆく。
かさなってゆく。

という最終連です。
まず、「ひたひた」というオノマトペね。
物事が静かに休みなく迫ってくる感覚でしょう。
「かさねられてゆく」が
「かさねる」という他動詞に受け身の助動詞が用いられる。
いかんともしがたい運命みたいです。そして、さらに、
最終行で「かさなる」という自動詞が使用される。
ここに表現された「人とはそういうものだ」
という諦念こそ、読むべきところかなと思うのですね。

ヤレヤレといいながら、
今日も日が暮れてゆく。
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