ニュース・日記

ニュース・日記

風通信208

2022/02/05(Sat)
風通信 |
 オミクロン株の脅威がひしひしと迫り来る中、昨日、完成した台本の読み合わせをスタッフで行った。え? 今頃? とお思いでしょうが、これは今回のタイトル「ザ・初見!」が意味する一連の流れです。「ザ・初見!」とは言ってみれば、メタタイトルになるんですね。正式なタイトルは当日まで不明。(もちろんスタッフは知ってます)役者にも知らせないところが味噌、醤油です。
 読み合わせでは、尺を測ることが第一の目標。ほぼ予定したとおりで、まずは祝着。あとは台本上の問題点を各々指摘。若干の修正をすると言うことで、これも難なくパス。題材はなんであれ、それが芸術文化であればアクチュアルでなければならない。その意味からも、スタッフの了解は取れた。
 どういう感じで参加するかは、今のところ不明だが、できたら生演奏があった方がいいなぁと考えて、アマチュアのギタリストに参加してもらったんだが、それもイメージに合った。開演時間とか、タイムテーブルとか、ザックリとした打ち合わせを制作として、荒々しい土の塊に、どうやら目鼻が付いた顔が見えてきたような気がする。こういう作業は通例だと1年前くらいから始めるものだが、今回は1ヶ月前。これはもう、拙速を通り過ぎて、「遅かりし由良之助」(仮名手本忠臣蔵)だけれど、今回に限っては、それもこれも順当なる進行具合です。近々、予約システムも稼働する予定だ。
 出演する役者さんを知っている人ならわかると思うが、若くて40代。その他は50代60代の中高年の男性ばかりです。さて、どういう芝居になるんだろう。年齢に見合った想定の芝居です。・・・徐々に、お知らせしていきます、あ、これを読んでいる人がいればの話だけど。
 冒頭に書いたように、新型コロナ感染症(オミクロン株)の感染者数が驚異的な数字を示しているけれど、役者さんが元気で居るかぎり、公演は中止になりません。
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風通信207

2022/01/17(Mon)
風通信 |
 1月10日は成人の日。白亜紀みたいな昔のことだから覚えていないけれど、いわゆる式典には行ってない。それはもう間違いのないことだ。当時は儀式的なことは完璧に拒否していた頃だったしね。でも今日は成人式の話ではありません。
 10日の午後、東京FMの「村上RADIO」で、「成人の日スペシャル〜スタン・ゲッツ音楽を生きる」という特別プログラムが組まれた。チャーリー・パーカーはもう、神様みたいなもんだけど、その対極にいるようなレスター・ヤングが好きな僕としては、当然スタン・ゲッツも好きで、特にヨーロッパでの録音は愛聴盤だった。番組で語られた内容には目新しいトピックはなく、だいたいが『Stan Getz:A Life in Jazz』に書いてあるものだった。それでも、ここではひとつだけ、語られた、これはという彼のエピソードを紹介したい。
 日本でいう中学生の時代にサックスを中古で手に入れたスタン・ゲッツはめきめき腕を上げて、高校に入った15、6歳で、すぐにプロになった。彼にはいくつかの特別な才能があったからだと言われている。そのひとつは、オーボエからクラリネット、アルトサックス、バリトンサックスまで、リード楽器は何でも吹けてしまうこと。そのうえ歌心があって音感がいいから淀みなくもぎたてスムージーみたいに吹けること。そして、これが重要なんだけど、写真能力の持ち主だったということだそうだ。写真能力というのは、楽譜をぱっと見て、初見で暗記してしまう能力のことです。才能があるということは、そういうことですね。『アマデウス』の中で、サリエリの楽曲を聞いた直後にそれを再現した神童モーツァルトのエピソードを描いたピーター・シェーファーの戯曲を思い出す。もっとも、モーツァルトの伝記本を読むと椅子から転げ落ちそうなエピソード満載なので彼は別格だろうけど。言うまでもないことだが、だからこそ、ミドルネームがアマデウス(=神に愛されし者)であっても不思議じゃないんだよね、きっと。つまり、それはほんとに特別な才能なんだな。この類いの才能をもうひとつ。青柳いづみこさんの本を読んでたら、20世紀初頭にフランスにいたジャーヌ・バトリというメゾ・ソプラノ歌手の話があった。彼女はラベルの歌曲集『シェラザード』を代役として歌ったということだ。さて、ここからが重要なんです。決まっていた歌手の急な病いのために急遽呼び出された彼女が、代役としてステージに立つまでに残された時間は2時間。つまり開演の2時間前に彼女は初めて楽譜をみたそうな。つまり、初見です。作曲者のラベルはきっかり1時間半の指導だけだったと。そしてバトリはオペラ・コミック座の舞台で、まるで自分のおなじみの曲のように歌ったらしい。感激したラベルは「感嘆すべき音楽家ジャーヌ・バトリさまへ。1904年10月12日の離れ業への感謝の念をこめて」と楽譜の上に献辞を書きつけたという。いつの世にも信じがたい才能を持つ人はいるものだ。
 しかし、ひとくちに才能と言っても、さまざま。音楽は矢のようにストレートに心の中に突き刺さり、一瞬で魂の次元を変えてしまうものだから、その創造もかくあらんと思うけど、演劇の舞台はね、そうはいかない。今回のプロデュース公演のタイトルは「ザ・初見!」です。そもそも芝居と音楽と同列には語れないし、上記のエピソードと比ぶべくもないのですが、今回の試みは、まさに、タイトル通り。どういう進行かって? もうちょっと待ってね。
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風通信206

2022/01/09(Sun)
風通信 |
 コロナウイルス感染症第6波がついに始まった年明けです。
 こういう時期だから多くの人が映画館は回避しがちだろうけど、幸いなことに最近はネットフリックスとかアマゾンプライムとか、ネットでの映画環境が充実してきた。ちなみに僕はWOWOWを契約しているので、WOWOWシネマをよく利用する。わりとなんでも見る方です。それでも、食わず嫌いのホラーは見ないか。それと、日本のアイドル系のラブストーリー。一生懸命演っているのは理解できるんだけど、典型的な表層芸術で、要するにそれだけで・・・、しかし、つまり、以前は少しは見ていたわけだ。同じく以前見ていて最近見なくなったのが、韓国映画。別に僕の中でサラサラした血が流れているわけじゃないけれど、見ているうちに、身体中の血がドロドロしてくる感じがして辛くなる。アジア映画では、やっぱりいくつかの中国映画が面白い。台湾の映画もなぜかパス。欧米の映画では、イギリスの映画が僕の一押しで、次ぎにフランス。スカンジナビア系の映画も沁みるときがある。ドイツ映画はメロドラマもコメディも波長が合わない。今さら比較論でもないが、印象主義芸術観と表現主義芸術観の違いというところだろうか。こうして国民国家の名前を付けていうとなんだかバイアスがかかっちゃうけど、やはりそれぞれの国に底流するものはありそうな気がする。それはそれとして、僕が最初に触れたのはやはりアメリカ映画だった。ハリウッド映画はプロットの予想がつくことも多いが、B級まで含めると層が厚いと思う。
 ところで、昨年の後半に見た『スカイライン』という映画で興味深い、というか、かなり衝撃的な発見をした。この映画は3部作らしい。(いまのところ第1作で挫折)2〜3部は面白いかもしれません。もっとも、『Xメン』という3部まで作られた映画の3作目で、登場人物が「3作目ってだいたいにおいて見る価値がないのよね」という自虐ギャグを言っているから、そんなものだろうと思う。『スカイライン』は映画のジャンルとしてはエイリアンものです。ただひたすらエイリアン星人がUFOキャッチャーみたいに地球人を母艦に吸い上げるだけのワンシュチエーションの話で、終わりの方になんか地球防衛軍みたいな戦闘機が登場して、その母艦やエイリアンを攻撃するという作品。ちなみにリドリー・スコットの『エイリアン』みたいな造型の象徴性はない。マンションの一室からその情景を見ている人物がいて、彼が視線を窓外に送る直前に横顔のワンカットがある。その背後に壁が見えるのだが、そこにポスターがさりげなく貼られているのがわかる。たぶん、3秒から5秒ぐらいのカット。そのポスターは時代はいつのものかわからないのだけれど、そこにははっきりと「神風」という字が読み取れるのだ。そして、次のカットはエイリアンの母艦に突っ込む地球防衛軍の戦闘機というシーンが続く。まるでアメリカ軍の航空母艦に体当たりする日本軍の戦闘機の映像をクリアーなカラーフィルムで見る感じとでも言おうか。いやぁ、太平洋戦争開戦後、80年という時間が経過したにもかかわらず、「神風特攻隊」というのはアメリカ人の深層には刻み込まれているのですね。最近読んだコラゲッサン・ボイルの小説にも「カミカゼ」という語があったし。日本という国家が、そういうシステムを容易に作り出す国家だということは忘れてはならないのだろうな。昨年再放送されたNHKの「新・映像の世紀」の21回は「銃後の太平洋戦争」だったが、このシステムの異常さがあらゆるシーンで延々と続いている。なんだか、遠い昔の話ではないような気がした。
 プロデュース公演の第2弾「ザ・初見!」の公演日が決まりました。3月14日です。一夜限りの公演。コロナの影響がないことを祈るばかり。
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風通信205

2021/12/21(Tue)
風通信 |
ほぅと思わず口から出てきそうなニュースを知った。

 高等学校の教科書の話だ。文部科学省が12月8日に、来年4月から全国の学校で使われる教科書の採択結果を公表した。実社会で必要な国語の知識や技能を身に付けるために、新たに必修科目となる「現代の国語」という教科書。文科省はこの科目で扱う題材を評論や新聞記事などの「論理的・実用的な文章」とし、小説など文学的な文章は除くと説明していた。それを受けて各出版社は小説教材を入れないものをつくったらしい。検定合格は17冊。その中で、唯一、小説を掲載した第一学習社のものが、占有率16.9%でトップとなったというのである。

 第一学習社は、「現代の国語」に、芥川龍之介の「羅生門」、夏目漱石の「夢十夜」など小説5作品を載せ、その掲載の理由について、「教育現場から、現代の国語の授業で小説を扱いたいとの強い要望が多く聞かれた」と説明しているそうだ。現場の教員が小説を扱いたいというのはわかる気がする。青春時代には多くの文学作品を読んできた人たちだろうし、いわゆる「国語」という教科をなんとなくかもしれないが好きだったろうから。もっとも、理系科目がまったく手に余って国語教員となったという教師を僕は知っている。僕の中学校の先生だった。ま、それはいい。小説を扱いたいとアンケートに答えた教師たちが「羅生門」や「城の崎にて」を読んで深い感動を味わったかどうかはわからない。僕なんかは専門外だから、今さら「羅生門」でもないだろうとは思うが、現場の先生方はそうでもないのだろう。その他には、村上春樹の「鏡」、志賀直哉の「城も崎にて」がラインナップされている。個人的には村上春樹は、まあ、彼は世界的な文学者だからおくにしても「羅生門」と同様に「城之崎にて」はないだろうと思う。優れた作品であることは認めようか。でもつまらない。あれって、いわゆる私小説なのかなぁ。その小説を通して何を教えるというのだろう。たぶん、教員が読むであろうマニュアルにはいろいろ書いてあるんだろうけど。

 一方、文科省が上記のような通達をしたのは実は大学改革と軌を一にしているのじゃないだろうか。つまり大学教育から一般教養を除外し、実学志向を進めているということと同じ発想だと思う。高校生対象の場合は、社会人になって契約書を読んだり、報告書が書けなかったら仕事にならないねという発想かな。産業界からの要請もあるに違いない。プロ野球でよく聞かれる言葉なんだけど、勝ち抜くためには即戦力になる人間が必要だ、とかね。組織が必要とする以外の余計な知識や、人間の実存的な意味を考察するような知性はいらないということなんだろう。それをあえて言えば企業の専門性ということになろうか。ここでね、ひとつの問題が生じるような気がします。専門性が現実社会の中で巧く働くためには、自己の専門性だけを学べば事足りるわけではない。他分野の専門性と編み込まなければならないということだ。それがないと自分の専門性は全うされないのです、たぶん。同時にまた、専門性の持つ陥穽に陥らないために、自己の専門性を相対化しなければならないことも必要だろう。そこで決定的な作用を及ぼすのが想像力というものだ。そして、想像力の多くを育むのが文学、芸術などの営為だと思う。芥川龍之介だったか、「見えるものは見えないものに繋がっている」という言葉があって、見えないもの、つまり不在なものへの心のたなびきみたいなものを僕らは持たねばならないような気がする。だとすれば、高校の現場で文学作品を読む機会を除外するというのは、けっこう問題だと思うのです。

 公演の日程が3月にずれ込みそうです。今日、制作メンバーと軽く会食。そういう話になった。コロナが完全終息しているといいけれど。
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風通信204

2021/11/21(Sun)
風通信 |
 僕がクラシック音楽をちゃんと聴き始めたのは、たぶん高校生の時だったと思う。学校をサボってか、放課後だったか、博多区の綱場町にあったクラシック喫茶シャコンヌ≠ノ通ったものだ。珈琲一杯で何時間も居座ることができた。そこで、バッハもモーツァルトも、ベートーベンも知った。中学生の時はビートルズばかりで、のちに甲斐バンドで活躍するM君からレコードを借り、オープンリールのテープレコーダーに録音しては勉強しながら聞いてた。レコードは高くてとても買えなかったわけだ。テープレコーダーにしても叔父から譲り受けたものだった。ちなみにその叔父からもらったレコードの何枚かは記憶にある。クラシックばかりだった。でも、それらは名曲の抜粋で完全なものは聞いたことはなかった。
 シャコンヌ≠ナ聞き始めて、ときどきTVでNHK交響楽団の演奏を視聴するようになった。指揮者という存在を意識したのもその時だったように思う。最初に知った指揮者は岩城宏之だった。そして、ウォフガング・サバリッシュ。ロブロ・フォン・マタチッチも、オットマール・スウィトナーも知らなかった。ちなみに岩城宏之は1967年から2006年まで正指揮者。ウォルフガング・サバリッシュにいたっては、1967年から2013年まで40年にわたって棒を振り続けている。まさに一緒に成長したというか、N響を育てたというか、そんな感じですね。そのサバリッシュの最後の来日N響公演は、彼が81歳の時の2004年の11月13日だった。プログラムはベートーベンの第7交響曲。その日、こういう話が伝わっている。
 NHKホールでの最終リハーサルのあと、彼はいつものようにこう言ったそうだ。「今日の演奏会うまくいくといいね。この一ヶ月間のプログラムを一緒に演奏してくれてありがとう。また、次ぎ来る時ね」しかし、その日はそう言ったあと、「バイバイ」と言い足したという。それを聞き取れた団員も聞き取れなかった団員も「いま、何だったの?」身近な人に確認し合ったそうだ。学校の教室で教員がとても大事なことを言ったらしいとわかり、それを聞き漏らした生徒が互いに確認し合うような小さいけれど広い範囲のざわめきだったろう。晩年のサバリッシュは老齢のために椅子に座って指揮をしていて、だから振りも少し小さくなっていたそうだ。けれども、この日の本番は違って大きく振っている。何が起こったのか。団員のひとりひとりはその指揮ぶりにつられて、そして突然理解したのだろう、全員が前傾姿勢で演奏しはじめたのだ。その日の最終楽章の演奏を見ると、もう、すごいんですね。特に弦の楽団員。バイオリンは上半身が揺れ、楽器が上下左右に動くし、チェロは前後に揺れる。しかもそれが全員まったく同じ動きなのだ。きっと分かったんだよね。
 一般に美術は空間の芸術と言われるのに対して、音楽は時間の芸術と言われる。それはある一面はついているけど、そうとは言い切れないと思う。たしかに、一瞬一瞬、音は川のように流れ、消えていく。けれど、魂の共振とでもいうしかない空間があの場にはあったように感じる。言葉には結ばれない思いが空間に満ちているとでも言ったら分かってもらえるだろうか。集団の芸術の素晴らしさはこんなところにもある。
僕らが作る舞台もそうでありたい。

 2月のプロデュース公演の役者が決定した。思いの通じる役者さんたちに声をかけたつもりだ。いい舞台を創りたいものです。
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風通信203

2021/10/18(Mon)
風通信 |
コロナも収束の兆しが見えてきましたが、まだまだ余談は許さない状況です。すごくありふれた言い方だけど、お元気ですか? ワクチン接種は済みましたか? 
この情況の中、福岡で緊急事態宣言が解除された日に、プロデュース公演の企画会議をしました。メンバーは僕と制作スタッフ。とりあえず、動き出したわけです。
今、部屋ではNHK交響楽団1814回の定期公演の様子が大きい画面で映っています。広上淳一が愉しそうに「ドボ8」を振ってます。本当に愉しそうだ。なにより自分が愉しそうなんだよね。これは大事なことです。まず、自分が愉しいと思うこと。そんなふうに舞台を創っていきたい。別府の台本を読み込んでいます。急がなきゃと分かっているんだけど、なかなか・・・台本分析の時間が・・・これ以上書くと、言い訳になりそうだから、今日はここまで。
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風通信202

2020/10/23(Fri)
風通信 |
長い準備期間を経た公演が終わったよ。君はついに顔を見せなかったけど。想いが届かなかったかな。それはもう、仕方のないことです。

公演が終わるとたいていは一週間はボーッとして過ごすんだけど、今回はそうもいかない。制作から支払いの件でさっそくLINEが入るわけで。いつものアントンのほぼ3分の1のオーディエンスでさ。チケットは完売状態でまずまずだったけれど、会場が円形ホールという、そもそもが狭い会場だったしね。
つまんなかったという人もいれば、面白かったという人もいる。それは気にならない。僕が作りたかった作品を作って、制作は身を挺して動いてくれたしね。作家は美しい言葉で感謝の言葉を残してくれたし、バンドチームは晴れ晴れした顔でバラシの後、小屋を後にした。きっと楽しかったんじゃないかな。そして、もちろん、お客さんの何人かはいい時間を過ごしたと思ってくれたと信じられたしね。バンドリーダーの椎葉さんには、「楽しくやろうよ、あなたたちが楽しくやれば、お客さんも楽しいはずだから。こんな時期だからこそ、そういう時間を作ろうよ」と言ってて、それはおおむね実現したんじゃないかと思うんだ。越智さんのマリンバは素晴らしかったし、栗林さんのボーカルには心が癒やされた人が多かったはずだ。
コロナ禍の時期だからこそ、知恵を絞って装置のN君も舞台を考えてくれたし、ライブ感に拘わり、重要なアドバイスや、フォローをしてくれた照明のA君もいつも通り美しい明かりを作ってくれたし。今回はワガママばかり言って困らせた音響のT嬢には、毎度のことながらいつもの笑顔で癒やされました。やってよかったんじゃないかと思う。そして、この文章を読んでくれるいくたりかのあなたにも、感謝します。
芝居そのものは、なるほどライブでした。1回目と2回目は違うんだよなぁ〜、これが。そこのことも含めて、やっぱり空気感は映画やTVなどの映像表現とは違うと思った次第。ま、僕が今さら言うことじゃないけれど。
コロナ禍のために、関係者の人数を絞ったせいで、僕が転換をすることになった。公演のタイトル入りの黒のTシャツに、黒のマスク、黒のキャップ。裏黒の足袋。サングラスまでしようかと思ったんだけど、それはあんまりだし、だいいち舞台でつまずいたらかえってみっともないしで、それはしなかったけれど、初日が終わって制作のKが、間違ったでしょう・・・。かれはボソッと言ってました。はい。だって、始めてで、僕なりに緊張したわけです。

これから数週間はいろいろ頭を悩ませて大変だけど、とりあえず、今日までは気分はいい。たった一本のメールからはじまった今回の公演だった。君に話したいことがたくさんある。
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風通信201

2020/10/18(Sun)
風通信 |
とりあえず、ここまで来ました。今日が最後の稽古。でも、終わりなき旅です。
まあ、本番まで今日を含めて2日しかないのだけれど、2日もあると言えば言える。
今日最後に、明日は小屋入り。12時間かけて円形ホールで仕込みます。

N君の舞台は図面で見るかぎり、オシャレな舞台で、それが現実化すると思うとワクワクする。前にも書いたように、ドンクサイ舞台は好きじゃないので、彼もそれが分かっているのでいつもなんか、いい感じなのです。
先日は、照明のA君が稽古見学。音響のT嬢は別の現場で大忙し。

もちろん、こんな時期だから「観に来てくれん?」とは積極的に言えないせいもあって、お客さんは少ないけれど、素敵な時間を提供出来ればいいなぁ〜と思うばかりです。ようやく予約も動いてきたみたいだけど。さっきパンフレットを作った。我ながら、オシャレな感じ。ふふ。なんかね、ひとり芝居だから、少しばかりお客さんにしっかり物語の構造を理解してもらいたくて、そういうものを作った。単純なデザインだけどさ。

考えてみれば、ガッツリした現代劇を演出するのは、実は初めてなんです、アントンでは。も、試行錯誤よ。おまけに博多弁。よく出来た本だし、音と明かりと装置が入って観るのが個人的には楽しみではある。いつもそうだけど、どんな芝居になるかは僕の頭の中にあるんだけど、T・S・エリオットのいうところの科学反応? だから、いつもワクワクする。
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風通信200

2020/09/30(Wed)
風通信 |
今年の中秋は明日だったかな? ま、それでもね、今夜の月はとても美しいよ。油山の上にほどよい色で輝いています。こんなに月が美しい深更にはよくメールを送ってくれたね。

君は元気ですか?

僕の好きな映画に『夜空はいつでも最高密度の青色だ』というのがあるんだけど、なかなか捨てがたい素敵な言葉がいっぱいある。たぶん最果タヒの詩句がモトになっている台詞なんだろうな。「君に会わなくてもどこかにいるのだから、それでいい。・・・水のように、春のように、君の瞳がどこかにいる。会わなくてもどこかで息をしている。希望や愛や心臓をならしている。」
こういうのを美しい言葉というのですな、きっと。

君は元気ですか?

9月が過ぎていく。本業では1年で一番忙しい時期となるはずだったけど、それがコロナ感染症の関係で10月まで延びたんだよ。もうね、村の鍛冶屋のように働いたわけだ。休日というものがなかった。それでも、10月21日までは、休まない。走り続ける。今回は制作部が関係者の人数を極力絞り込んでいるので、いつもだったらステージのゴミを拾うくらいしかすることのない僕も、当日いろいろしなければならないことがあるらしい。ヤレヤレです。バックヤードで、使い古したパイプ椅子に浅く腰掛け、足を投げ出してモニターを見ているわけにはいかないようだ。もう、ヤレヤレです。でも、本番当日は、プロデュース・スタッフの言葉が最優先だから。特に、今回はコロナ感染症対策が最優先だし、彼らはそのことに神経の大部分を使っているのを知っているから、僕としては何も言えない。貝になる。コロナといえば、今日、福岡の芸術団体の大御所たちとの会議があった。いつもなら2時間くらいはかかる会議も約30分で終了。いろいろなところに影響がある。ま、当たり前だけど。お客さんには来てほしいけど、来てほしいってなかなか言いづらいよね。それでも、対策はほぼ完璧に実施するから、って。

芝居の稽古に終わりはない。有定さんと一緒に芝居を創るのは今回が初めてだ。昨日の言葉、「あのさぁ、本番当日まで・・・、一番いいと思うことを探し続けるから・・・。初日と楽日の間でも小返しはするよ・・・。」その場にいた制作部の川添は、「そうなんだよな」という苦笑い顔。彼女は素直だから「はい!」

明日も稽古です。

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風通信199

2020/09/07(Mon)
風通信 |
台風一過とはいかないけれど、想定より進行速度が速かったせいか午後には青空が見えていた福岡の空です。台風が過ぎて秋かも・・・、とはいいながら、今週はまだまだ酷暑が続きそうでやりきれない夏の終わりですね。
経費削減のために、チラシを誰かに依頼するのではなく、自分で作りました。フォトショップとイラストレーターを分からないなりに使ってみた。時間がかかったなぁ。同じ失敗を何度もしたり、やり直したり。本業と稽古の時間以外はほとんどそれに費やしました。画像は警固公園。CMの垂れ幕や、電線、不用な人物をカットして。だって、公園だもの、たくさんの人が歩いてる・・・。

物語はあるアパート。2階には港町司法書士事務所があり、3階より上は、賃貸の住宅。事務所には「野村 望」という60代前半の司法書士がいる。3階に「重宗 優」という薬局に勤める20代後半の女性の部屋。そこに居候する「大岡郁美」という同年代の女性。この三人が、それぞれ一人ずつ登場して進行するひとり芝居です。
 『タンドリーチキンの朝』→大岡郁美(演者:有定千裕)
 『アイランドキッチンの昼下がり』→野村 望(演者:中山ヨシロヲ)
 『ロングカーディガンの夜』→重宗 優(演者:有定珠菜)
「大岡郁美」は、舞台には登場しない「徳永正敏」という男性と付き合っているんだけど、どうやらその男性は「重宗 優」の元カレらしい。あれ、あれ?・・・複雑です。2階の「野村 望」は彼女たちとは面識がない設定。

オープニングとそれぞれのお話しの間には、バンドによる楽曲が入ります。いかにも素人くさいバンドです。どうやら同じアパートの住人らしいのです。総合タイトルは『Will you still love me tomorrow』で、もちろん、キャロル・キングの名曲です。まあ、「明日も私を愛してくれる?」くらいの意味かなぁ。舞台のオープニングで演奏されます。数多くのカバーがあるけれど、元にしたのはシュレルズ版です。本当はガールズ・コーラスを付けたかった。でも、コロナの影響でそれが出来なかったのです。まだ、間に合うので、「やりますッ!」という奇特な人いないかなぁ〜。

今日の西の空は、たたなづく豊旗雲・・・とでも言うのか、雲がまだ厚い。風が走っているので流れも速い。でも、その縁には、美しい夕焼けが輝いている。「Waterloo Sunset」もこんなふうだったろうか? キンクスの曲ですね。ウォータールー駅で出会った二人の目に映った夕焼け・・・。この楽曲も、幕間に演奏されます。
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風通信198

2020/08/13(Thu)
風通信 |
 いきなりプラトンの話です。素材は『パイドロス』ね。有名な文字批判です。もちろん、プラトンの著作だけど、ソクラテスの言葉を残している。ソクラテス自身は書き言葉を残さなかった。なぜかというと、話し言葉を信じていたからです。
 もう少し、詳しく話しておこうか。
どうやら、ソクラテスもプラトンも言葉というのは、話されたり書かれたりする以前にすでに存在していると考えていたんじゃないかと思う。その言葉が表出されるベクトルが書き言葉と話し言葉です。もちろん、この二つは同じものだから、共に人々の心の中に語りかけられ、育ち、心を太らせもするし、例えば真偽不明の情報を表層にだけ垂れ流しつづけるだけで心の中に止まらないこともある。繰り返すけど、そうした正反対の要素は書き言葉にも話し言葉にもある。ただしね、ここが重要なんだけど、ソクラテスは話し言葉のベクトルの方がより前者の在り方を保持していると言っているんじゃないかと思うんだよね。プラトンは偉いところはそのことを十分認識していながら不朽の言葉として書き言葉に残した。おそらく師に対する永遠の崇敬を込めてね。
 紀元前370年頃の話だけど、ソクラテスの想念は予言めいていると思いませんか。「書かれた言葉」の生む厄難はネット社会に生きている僕らには日常的に見聞する。ネットにおける誹謗や中傷の記事は枚挙に暇がないし、増幅される不信や憎悪は目を覆うばかりだ。先日の話、青森県に東京から帰省した男性の自宅に、「こんな時期になぜ帰ってくるのか。いい年をして何を考えているのか。近所には高齢者も幼児もいるのに・・・云々」というペーパーが投げ込まれたというニュースがあった。書いた人物のやむにやまれぬ心情は一応は理解できる。そういう人もいるかもしれない。(実際にいたけどね)しかしそれを書き言葉に残し、対象たる人物の玄関先に投げ入れるという心情はどうにも理解できない。まあ、これなんかも、書き言葉の弊害なのではないかと思うわけです。あるいは想像力の問題かもしれないけどね。
 芝居の言葉は書かれたものなんだが、話し言葉を想定している書き言葉です。今回の芝居では、作家の書き下ろした台詞はいわゆる標準語じゃない。博多弁です。『タンドリーチキンの朝』も『アイランドキッチンの昼下がり』も『ロングカーディガンの夜』も、すべて。なぜ博多弁で書いたのかはあえて聞かなかった。で、書き言葉だけど話し言葉なのね。だから、言葉が自分(同時に相手)に届き、自分(同時に相手)の中で想いが成長するようになってほしいのさ。それを目指しているというか。
 ジャン・コクトーのひとり芝居『声』のアイテムは、書かれた当時珍しかった電話です。混線という状況を上手に利用した作品だ。今回の三作も、電話がキーアイテムだけど、ま、混線はないわな。電話といってもネットがらみです。語られた言葉が相手にどんなふうに届くのか、自分の中にどんなふうに響くのかが、なかなか難しい。そして同時に難しいのが、身体。もし、古代の哲学者たちが考えていたように、言葉が発せられる前に存在しているとしたら、言葉が語られるとき、身体の所作はどうなるのだろうか。そして、コロナ対策として上下(かみしも)前奥(まえおく)二間(にけん)強のステージでの動線はどうする? 役者との二人三脚が続きます。本番まで。
 ケータイといえば、必要に迫られてLINEをはじめた。設定からなにから、すべて制作部にお任せ。使ってみると案外便利なことが分かった。もっとも単純な連絡以外は使ったことがないんだけどさ。
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風通信197

2020/08/09(Sun)
風通信 |
「ウイズ・コロナ」・・・思うんだけど、違うんじゃないか。いや、確かにそういうスタンスじゃないと今の現状は乗り切れないことは分かるよ。でもさ、なんだか、この言葉には違和感が残る。君はどうですか?
 僕らは報道にしたがって「感染症」と言ってるけど、要は昔から言われている疫病や伝染病なんだよね。歴史学的に見て、それが人類の社会に与えた影響は大きい。ある文明はマラリア原虫のために衰退したし、ある軍隊は極微のコレラ菌や赤痢菌のために壊滅した。中世末期ヨーロッパをおそったペストは近代を開く陣痛となったろ? だって文明世界全体で7千万人もの死者が出れば、古い観念や宗教の権威を失わせるというパラダイムシフトが起こって当然だからね。

 と、ここまでは前説でさ。前便の続きです。

 「ライブ感」こそ演劇の醍醐味だと思う。その意味で安易なリモート演劇(あ、もちろんリモート演劇そのものが安易と言っているわけじゃない)なんて僕らは拒否すべきだろうと思う。もし、リモートで演劇を配信したいなら、照明や音響や装置や、そもそも「本」のコンテンツまで考えたものでなくちゃいけないんじゃないかねぇ。それに十分な時間と入念な設計図もなくこんな時代だからリモートで芝居を、などと発想するのが安易ということで、それでは演劇の根本を見失うことになるはずなんだ。安易さに流れてはいけない。
 
 では、どうすればいいのか? 答えはいたって簡単だ。

 考え得るかぎりの知恵を絞ってコロナと戦い、舞台を創ることだ。感染のリスクがあるなら、できる限り感染を回避できるような舞台を創る。だから、確かにコロナは存在するし、僕らはその恐怖を感じながら日々を生きているから「ウイズ」なんだろうけど、なんかさ、「ウイズ」と言われると、共に生きていこうとか、存ることを前提としてうまく付き合おうとか、そんな発想のような気がするから、違和感があるんだよな。少し分かってくれる? 僕は戦うことが大切だと思う。そこでもし倒れても、生き残った人間がきっと新しい何かを作ってくれると信じているからね。
 歴史上、どのような劣悪な環境でも悲惨な情況でも、人間はまずもって演劇から始めた。なぜなら、そこにひとりの人間がいて、彼(もしくは彼女)が言葉を発すれば、そこに芝居が現出するわけだから。ピーター・ブルックが言ってたよね、「何もない空間」です。そこで芝居がはじまる。前便でも言ったけど。
 ひとりひとりの生命は確かにかけがえのない大切なものです。でも、思うんだよな。たとえ誰かが(もちろん僕が)倒れても、誰かが新しい時代を創ってくれると。その誰かが倒れてもまた違う誰かがいる。人類はそうやって生き延びてきたんだし。新しい価値の創造、パラダイムシフトとはつまり「世代交代」の言い換えなんだから、新しい時代の演劇を創ってくれると信じられる。そう思うとね、今、僕らはコロナと戦い、ライブ感を持つ「演劇」を創ることがとても大事なことのように思えてくる。そのためにも、舞台を作り続けていくべきなんだろう。

 まっ、たまたまね、今回の舞台は「ひとり芝居」の3本立てだから? コロナ対策のいくつかは回避できそうです。偶然とは言いながら。コロナ対策を逆手にとって、バンドの在り方もよりよい見立てが出来そうだ。今週はバンド関係の打ち合わせ。バンドチームと話して、音響担当のM譲と会います。
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風通信196

2020/08/08(Sat)
風通信 |
今週は、照明を頼んでいるA君と打ち合わせをしたよ。パピヨンガーデンにあるコメダ珈琲は、具体的な客席の措置はなされていなかったけれど適度な人数だったな。客席毎のビニールシールドはあってもいいかなと思った次第。まあ、それはいいさ。
 開口一番、彼の口から出て来たのは「演劇はこんなに必要とされていないんですね」という言葉だった。この言葉だけだと意味が分からない、よね? でも、彼が言いたいのはおそらくこういうことじゃないかと思うんだ。ちょっと僕なりの注釈をしてみようか。間違ってたら、ごめんね。
 彼のいう演劇とは「ライブ感」じゃないかと思うんだな。映画やTVの芸術性は認めた上で、それでも演劇にしかないのは生身の人間が全身で舞台に立って演劇をするというライブ感だと思うんだ。図らずも、昨日の稽古でね、有定(女優です)に向かって僕は、正確には覚えていないんだけど、こんな言葉を言ったんです。「いいか、言葉は不自由なものだ。言葉では想いの何十分の一くらいしか伝えられない。だから、そのことを分かった上で演技をすること。人は全身で話していると思った方がいい。だから、君の一挙手一投足がすべて言葉。舞台でお客さんは君の全身をみている。台本は書かれた言葉だ。だけどそれを君が生きた言葉にする。言葉を身体が裏切ってはいけない」こう書くと、なんだか自分のその時の想いがうまく伝わらない気がするなぁ。稽古のときは、想いも、意味内容も成立しているはずだけれどね。まあ、こんなふうに、よくしゃべっています、稽古では。有定さん、五月蠅くてごめんね。
 役者が舞台で生身を曝して演技するというギリギリの情況は演劇でしか味わえないライブ感じゃないかと思うんだ。A君が言った言葉を僕なりの解釈すると、昨日有定に話した言葉と同期すると思うわけ。つまり、そこにひとりの人間が立っていて、「あ」と言う。次に「い」という。手の動き、足の動き、表情筋のひと筋、ひと筋が、精妙に動いて・・・、つまり身体が言葉を支えて・・・ほらぁ、もうそれだけで、芝居ははじまる。そして、その空間に共に身を置くことで生きる充実感を得る。演劇とは本来そういうものなのに、それを人は欲しがっていない。コロナのせい? そうかもしれない。でも、そうじゃないかもしれない。彼の言葉はそのジレンマの表象だったように思うのです。
 明日(あ、もう、今日か)は、稽古2本立て。「タンドリーチキンの朝」の有定千裕さんと「アイランドキッチンの昼下がり」の中山ヨシロヲさんと3人です。稽古でも蜜は避けなければならない。稽古のときいつも思うんだけど、役者は休めるけど、演出担当は休みがない。だけど、ときどき休む。ごめんね。
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風通信195

2020/08/03(Mon)
風通信 |
 ここのところのコロナ陽性者の数をみると、第2波がすでにはじまっていると思うんだけど、どうなんだろう? 重症者の割合は低いということだが、僕のように高齢者だと一概に「ああ、そうですか」と言えないことは確かですな。僕の周りは今のところ大丈夫だけど、ソフトバンクの長谷川が罹患して、昨日の試合は中止。中世の修行僧のような彼が夜の街で遊んだとはにわかには信じがたいので、何処で誰が罹患するか闇の中、かいもく分からない情況だね。

 問題は、10月の公演。なんか、本気で心配になってきたなぁ。前にも言ったように福岡県の施設なので、県のガイドラインで使用不可となったらアウトです。でも、すでに列車は動き出しているから、よほどのことがないかぎりそれを止めることは出来ない。観客席が半分になろうとも(そしてそれはほぼ確実なんだけど)、舞台は必然的にそこにあるべくしてあると考えたいんです。というかね、公演、それ自体がヴィークルとして僕らを運んでいるような感じだな、今は。横を見れば、作家の別府がいるし、心強い我が制作スタッフもいる。地味に待っててください。

 先週は、装置のN君と打合せ。コロナ対策の具体案は出していない。今週、頼りのA君と打合せの予定。何かと工夫を凝らすベテラン、稀代のアイデアマンだから妙案が出てくるんじゃないかなぁと期待しているけど・・・。なにより、コロナ対策を考えなくちゃいけないよね。また、先週はバンドチームの椎葉さんとも打合せをした。思いがけず、アレンジの方向性が定まっていて、正直ビックリした。練習場所の目安もたって、ガールズコーラスに関する人の手配なんかも話せました。今回のひとり芝居3本立ては、幕間に1950年代から60年代の楽曲をセレクトした。だから、おそらくコード進行もシンプルなはずだ。

 拠点の稽古場は、大橋の「夢あ〜る」。昼間は仕事があるので、主に夜の稽古です。僕はだいたいにおいて稽古のときは動き回りながらなんだけど、最近は1時間もすると体力が持たなくなって、つい椅子に座る。致し方ないとはいえ、情けない。でも、とりあえず頑張ってます。稽古場の経費はバカにならないんだけど、「夢あ〜る」は市の施設なのでかなりリーズナブルに設定してあって、それはそれでありがたい。一方でさらなる経費削減のために、無料で貸してくれるところを探して、ついに教育関係施設の視聴覚室をお借りすることができたんだよ。関係者の皆さまありがとうございます。

 稽古場問題は舞台関係者にとって積年の課題だな。制度として芸術文化の振興を促すシステムは少なからずあるし、多くの劇団はそれを頼りにしている面も否めない。でもなんか変な感じ。巧く言えないんだけど、ベクトルが違うような気がするんだね、僕は。たとえば、芸術振興のためにこんなことを企画したので、参加したらどうかというベクトルは、創作側にとって受身であることは免れないでしょ? 行政は所詮ゼネラリストでなくちゃ務まらない職種で、そんな行政側に頼ってどうするの? といつも思う。むしろ、スペシャリストである僕らの方から行政を動かすくらいの気概が欲しいのですね。ところが、ひとりひとりの、あるいはひとつひとつの劇団の声ではたぶん届かない。だから纏めてパワーにする。僕がかつて非営利団体を創ったとき、おぼろげながら考えたいたことは、そういうこともあったんだ。ま、主役にならない団体ね。だって、主役はあくまで芸術創造団体でしょう。その支援するなら主役になってはいけないのだから。んなことより、とりあえず、僕は稽古場が欲しいのだった。
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風通信194

2020/07/20(Mon)
風通信 |
 人の手によってこの世に存在させられたものは、すべてデザインされたものです。こと舞台に限ってみても、役者の衣装、メイク、そもそもの演技から、劇判のセレクト、ライティングのアプローチ、そして大道具や小道具などの装置まで。僕らのような零細アマチュア劇団の場合、そうはいっても、すべてが叶えられるわけじゃない。それらは「舞台の経済」と密接に関わっているんだよ。落としどころをどのあたりにするかが問われる。まあ、そういう意味では「ご都合」が大事。

 初期の僕らの舞台を支えてくれたのは、彼が高校生の時から知っている、あのA君です。思えば、随分と無理難題をふっかけてきたんだ。A君、すみません。そして、ありがとう。演出家の要望をほとんど叶えてくれた。例えば、ある芝居では舞台にどうしても本砂が欲しくて要求したところ、彼は仕込み前の夜中に、津屋崎の海岸に行って、ズタ袋十個分の砂を小屋に運び入れたことがありました。照明屋さんなのに、装置屋までやったことになります。本水もやりました。窓の外は夜の雨。窓ガラスに雨の雫がオープニングからエンディングまで流れ続けるというアイデアだった。ポンプなんかは経済的に造れないから、パネルの後ろの人形のところで鎮を重ねて、当時は若手、というか大学生だったかなぁ・・・Kさんや最近この通信に登場してくるSさんが芝居のあいだ中、如露で滴を作っていました。腕がパンパンになったと言われたような気がする。感謝です。まあ、若者だし・・・ふふ。400人くらいの人が観たと思うんだけど、しかし、そこに気づいた人はヒトケタ代でした。残念。芝居はすべてが虚構だけど、だからこそ細部に本物を仕込むことで観る人の身体の感覚にリアリティを感じさせ得ると思うんだ。嘘と分かっていながら物語に同期できるというかね。A君はそこに50番代と80番代の色を組み合わせた、それはそれは美しい明かりを作ってくれたことも覚えています。そんな明かりは現実にはない。だからもちろん嘘なんだけど、観ている人は(舞台上では)現実として認識するなのだ。・・・あ、うまく説明できていませんね。
 本業の明かりでは、別の時に、もしかしたら失礼にあたるかもという要求をしたこともある。その舞台では、全編を通して柔らかな明かりだけが欲しかった。ボーダーだけだと強すぎたし、それで、トップサスもなくし、光源が推定されないような舞台照明を作ってくれと言いました。ヤレヤレ。結論から言うと、その舞台は、客席から見えないような状態で、ステージ上の全面に厚手の半透明のビニールシートを掛けることになった。灯体の効果を見せるなということでもありますから、灯り屋としては、忸怩たる思いだったろうな、と思うばかりです。そして、今回もそのA君が照明を担当します。無理は言わないようにしよう。

 僕は舞台に建て込みをしないタイプの舞台をずっと創ってきました。用いた方法は見立てね。言ってみれば日本の旧い伝統的な舞台技術です。それにしてはアブストラクトな舞台ばかりだったけど。松羽目ほどじゃないな。ただし、自分の考えるここだけはというところは、さっきの雨のようにリアリティを心がけています。あくまで独りよがりにならないようにはしているんだけど、人にはそれぞれの物差しがあって、その尺度がなかなか難しいんだなぁ。こっぴどく扱き下ろす人もいる。あげつらうのが趣味の人もいるし、ま、それは仕方ないよね、残念だけど。僕はこれからも、死ぬまできっと建て込んだ舞台装置は作らないだろう。もう、先は長くないけどさ。今回は、三場ともマンションの一室が舞台。しかも一場と三場は同じ部屋。二十代後半の女性の部屋だけど、それらしい物は何一つ置かないつもりだ。でも、ホリゾントの幕はそのまま使ったのでは意味がない。(あ、つまり、舞台上の総てのものは必ず意味が在るモノなんです)部屋であることは、部屋だということは、お客さんに最低限伝えなくちゃならないんだ。君がたった一人のお客さんだったら、「そう思ってくれ」と言えるんだけど、そうはいかない。じゃあ、それをどの程度工夫すればいいか。もう、必死で考えるのさ。役者としての付き合いからはじまったN君や、A君との相談が始まります。絶対作りたくないのはドンクサイ舞台。うまくいくかどうか分からないけれど、そう心がけている。生き方と同じです。

 今日は、ちょっと専門的なタームがあって芝居とは無縁の君には読み辛かったかなぁ・・・。
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風通信193

2020/07/09(Thu)
風通信 |
本来は語られるものである、台詞を書き写してみよう。

この宇宙には四千億もの太陽が、星があると申します。それぞれの星が平均十個の惑星を引き連れてゐるとすると惑星の数は約四兆。その四兆の惑星のなかに、この地球のやうに、ほどのよい気温と豊かな水に恵まれた惑星はいくつあるでせう。たぶんいくつもないでせう。だからこの宇宙に地球のやうな水惑星があること自体が奇蹟なのです・・・。

 (ト書き) 森本が『星めぐりの歌』を低く、ゆっくりと弾き始める。

・・・水惑星だからといってかならず生命が発生するとはかぎりません。しかし地球にあるとき小さな生命が誕生しました。これも奇蹟です。その小さな生命が数かぎりない試練を経て人間にまで至ったのも奇蹟の連続です。そしてその人間のなかにあなたがゐるといふのも奇蹟です。かうして何億何兆もの奇蹟が積み重なった結果、あなたもわたしもいま、ここにかうしてゐるのです。わたしたちがゐる、いま生きてゐるといふだけでもそれは奇蹟の中の奇蹟なのです。かうして話をしたり、だれかと恋だの喧嘩だのをすること、それもそのひとつひとつが奇蹟なのです。人間は奇蹟そのもの。人間の一挙手一投足も奇蹟そのもの。だから人間は生きなければなりません。

これは、井上ひさしが『きらめく星座』で書いたもの。僕が芝居から離れられないのは、この台詞が存在するからだといっても過言じゃないなぁ。むかし、そういう話をしたこともあったよね。この台詞は映画やTVでは表現しきれない。そしてもちろん、この台詞は書かれたものだけでは、半分の価値しかないのは、いうまでもない。舞台上で役者の肉声を以って語られてこそ本当の価値が生まれるんだ。大事なのはコトバとそれを支える役者(人間)の心だと思うんだな。役者はこのコトバをどう伝えるのか、どんなふうに届けるのか、それが試されるわけなんです。ねぇ、素晴らしいとは思わないか、演劇って。

君も知っているように、僕は音楽が好きだよね。クラシックからロックまで、はては民謡まで、なんでも聴く。僕の楽曲コレクションはだから、節操がありません。音楽は、まるで矢のように魂に突き刺さるような気がする。涙を流すことだってあるよ。(誰のどの曲で泣いたかは秘密です)だけど、演劇はなによりコトバなんだ。コトバに魂を込めるというかさ。僕が選んだのは、うまく説明できないけれど、やはり音楽じゃなく演劇だったのが自分なりに納得できる。いろんな演劇がある。表現はさまざまだよ。僕が考える演劇はその表現のひとつのスタイルにすぎないけど・・・。

たった一行のささやかなコトバでも、
それを誰かに届けるために、明日も役者と稽古します。
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風通信192

2020/06/30(Tue)
風通信 |
6月が終わろうとしている。考えるまでもなく、今年の半分が終わることになる。とんでもない半年だった。2月くらいから怪しい雰囲気が始まって、5月がピーク。そのせいで仕事は、今のところ、今月から8月までは、年度初めの4月から5月までの補充期間と設定されているんだよね。村の鍛冶屋のように働いている僕の職種は、年齢に関係なく、つまり僕のように還暦をとうに過ぎた人間も徹夜してもとりあえず大丈夫な20代の人間も同じ仕事量だろ? 僕にもそれなりに言い分もあるんだけど、まあ、仕事だし、野の果てを見ることなく草刈りしています。

これを書いている今、新国立美術館のTシャツを着ている。なかなか派手目のプリントで身内ではあまり評判がよくありません。上京したときは必ずあの美術館に立ち寄ることは知ってるよね。地下鉄の乃木坂駅から歩いて西入口から入場して、まずは空いている椅子に腰掛ける。あそこの1Fの企画展示室の前の空間は大好きでさ。たぶん「孤独」というのは本当は、ざわざわした街の群衆のただ中でした味わえない感情なんじゃなかなぁ・・・。あの場所で僕はいつもそう感じる。そうでありながら緩やかな親密感があるというか、不思議な空間だ。話したと思うけれど、1年に1回は行きたいと思っていた。六本木のサントリーホールの近くに宿を取って、夜はコンサート。そして天気がよければ、バスに乗って近くまで行き、後はブラブラ歩きながらビルの間からときどき見える美術館を目指して歩くのは至福の時間だ。渋谷のシアター・コクーンや世田谷のトラムもよく行くけど、僕にとって新国立へのアプローチは特別な時間のような気がする。だけど今年は東京に行けそうにもないなぁ。コロナ禍の今年いっぱいの改善は無理だと思うし、もちろん新作の芝居があるからね。とりあえず、僕のエネルギーはそちらに傾くだろう。

トップページに告知したので、日程はわかったよね。

ひとり芝居だから、小屋をどこにするかはずいぶん考えたよ。まずはキャパの問題。それにお客さんのアクセス、時期、最大の懸案である予算・・・。制作の矢野や川添の貴重な意見ももらった。とりあえず、小屋と照明、音響はスケジュール押さえたところで、コロナ禍。県の施設だから入場者の制限がまことしやかに語られている。10月のガイドラインはまだ発表されていないけど、噂だけは宿命のように一人歩きしている。そうなるとワンステ、たとえば50人になるかもしれないんだ。そうすると2日間の公演で、しかも平日で100人・・・。長崎にいるSさんや、熊本にいるMさんにも見てもらいたいけど、わざわざ交通費をかけて見に来てもらって、え? これがアントン? といわれてもなぁ〜。(あ、君は知らないと思うけど、SさんとMさんは、僕の好きなベテランの女優さんです、念のため)まぁ、久しぶりにアントンの芝居を楽しみにしている人は、それなりにいそうな気もするんだけど、こればかりはね。選挙の当確情報とは違うから、当日まで分からない。制作の二人に苦労かけるんじゃないかと思っている。今日は、仕事帰りに制作スタッフと打合せ。顔が青ざめるほどの、悲鳴が聞こえてきそうな情況なるも、でも、うまくいくかどうか分からないけれど、僕らはルビコン河は渡ってしまったと思っています。リチャード3世のように不敵に笑っていよう。
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風通信191

2020/06/16(Tue)
風通信 |
今日は劇判のことについてちょこっと情報を。

ひとり芝居の3本立ての内、真ん中の午後のシーンは、中年男性が主人公なんだ。キャラクターの造型を考えていたある日のことです。ショスタコービッチの『ジャズ組曲』が頭に浮かんだ。いや、名曲です。アレ使えないかなぁと思って、別府に劇判として使いたいんだけど、というと、2、3日して、台詞の中に「ジャズ組曲」という言葉が入った新しい台本を届けてきた。少し無理はあるかもデス。でも、それは演出でカバーできると踏んだ。

次に、生劇判だから、どうしようかと・・・。フルフルズに任せるのは荷が重かろうと・・・。シンプルにいかねば・・・、大人の音色・・・、などなど考える内に、ひらめいた。君に言わせると単なる思い付きです。えへ。いつもそうだよね。演出も生き方も、あまり考えない。ひらめきはすぐ実行が原則だから、ある楽器のソロプレーヤーのところに足を運んだのさ。顔だけは知っていて、話したこともない人です。自己紹介から始まって、約1時間・・・2時間だったかな、口説いた。僕は女性を口説いて、はかばかしい成果を上げられなかった数多くの経験譚の持ち主なんだけど、わりと男性は落とせる自信がある。ここでね、落とすと僕が言うのは、実は、ノーギャラでの出演を依頼したということです。いや、申し訳ないことです、ほんとに。我ながら信じられんし、そもそもホントはしてはいけないことなんです。いつもそう思う。芝居やっている人なら、上演の経済はよく分かっているからハードルは低いんだけど、同じステージ・パフォーミングでも違うジャンルの人だとかなりのハードルなんだよね。だって、彼の場合リサイタルまでやって、CDまで出している音楽家ですから・・・。ああ、もちろん、若干の謝礼は用意するよ、もちろん。でも、ギャラというにはあまりにも情けないもので。僕の話? いや、面白いことやりません? という感じでした。アントンのはじめころはだいたいそうやって役者さんと話して、口説いていたことを思い出した。
暗転から彼の演奏が静かに始まる。曲はもちろん、『ジャズ組曲』の第1番。メロディが聞こえてこないか? 主人公の、仕事をそれなりのそつなくこなしながらも、どこかやるせない思いを抱いている感じがなかなか合います。

もちろん、朝のシーンは女の子にひとり芝居です。これにも劇判は付けようと思っている。これは、『Your Song』ご存じ、ロケットマンの曲ね。詩がさぁ・・・なんとも煮え切らなくて。そこがまたよくて。この女の子のメンタリティも微妙で。ひとり芝居だからソロの劇判。ここは定番のアコースティック・ギターです。この曲のアコギ版は楽譜もわりと出版されているらしい。まあ、これは一応「フルフルズ」のギター担当に頼んだ。半年かけて練習せーや、ってさ。クラシックギターもしているそうだから、いい感じが出せると思うんだ。ガット弦よりもスティール弦の方がいいかなと思うけれど、プレーヤーがどう思うかです。

君は元気にしてますか? 
便りがないことが元気な証拠だとは思っている。
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風通信190

2020/06/10(Wed)
風通信 |
189便で書いた文章は依頼されて書いたものだったんだけど、残念ながら掲載されなくなった。内容が担当者のお気に召さなかったらしい。まあ、そういうこともあるよね。ちゃんと読んでくれたかどうかも分からない。理解はしただろうけど分かってはくれなかったというところかな。君は読んでくれましたか。たぶん、君のことだから、ある部分は分かってくれるんじゃないかと思うけどさ。対象だった高校3年生には読んでもらいたかったのでちょっと残念ながらでした。

今日は、今度の新作のことについて書きます。

2017年だったか、NTライブでゴルドーニの作品をブライトンに置き換えた『One Man, Two Guvnors』を観た話はした? すごくシンプルな笑劇で、始まって10分から終わりまで笑っていたんだよ。しまいには笑い疲れというのか、顎が疲れちゃって困ったくらいだった。主演のジェームズ・コーデンの間合いの巧さというか、オーディエンスとの距離の取り方とか、実に周到に計算されていて、あ、もちろん役者は全員イギリス俳優だから、みんな巧いんだけどね。ビデオがあれば何度でも観たいくらいなんだ。僕は、『リア王』を終えていたから、ほら、あの芝居は登場人物のほとんどが死んでしまうという恐ろしい芝居だから、その反作用かなんかで、カラッと笑える芝居が欲しくてツボにはまったのかもしれないと思う。

次に芝居を創るとしたら、こんな感じの芝居がいいなあと思ったんだよ。それで、いろいろ探してテレンス・ラティガンの喜劇と決めた。いつものように翻案して台本まで出来上がった。思いっきり仕込みを入れた芝居でした。ところがさ、役者が揃わず、流れてしまった。登場人物は15人です。はは。それも年齢層が多岐にわたる。頑張ってはみたんだが、どうにもならなくてね。こういうとき、俺も年をとったんだなぁとちょっと寂しくなったりしてさ。

前にも言ったと思うけれど、若い友人の別府があるとき、こんなのを書きました、と原稿を送ってきた。それがえらく面白くて。いや、喜劇じゃないよ。現代風ではあるけれど、ははぁ、今どきの男女関係ってこんなんかもしれないなぁと思ったわけ。これは演出してみたいと思った。それで、さっそく別府に連絡してみると、OKと言うことで、決まりです。まあ、作家としては上演したという人がいれば反対はしないでしょう、よほどのことがないかぎり。女の子のひとり芝居で、時間は「朝のひととき」。ついでなら、「昼のひととき」と「夜のひととき」も欲しくなった。別府に話したら、それいいですね、となって、それぞれ違う人物のひとり芝居の3本立てと決定。ただし・・・、とこれ以上は言えません。

僕の頭の中には、『One Man, Two Guvnors』が残っていて、あの芝居では幕間にスッキフル風の楽器を取り入れた60年代を彷彿とさせるバンドが登場するんだ。初期のブリティッシュ・ロックのようでした。冒頭から登場するので、れれ? これは芝居? と思ったくらいだったよ。これがいたく気に入っちゃてさ。これ、面白いかもと思った。そこで、旧知の椎葉裕に連絡を取ってみた。椎葉さんのことは話したことあったっけ? もう、かれこれ30年の付き合いになるけど、昔からアマチュアバンドをやっているのね。もう、彼しかいない、と思い込んでしまった。アマチュアの香りがプンプンするんだ、いろんな意味で。僕はお客さんが楽しくなるような音が欲しかった。だから、あまりガッツリと音を追求するようなバンドは欲しくなかったんだ。「フルフルズ」(これがバンド名です)はそれにぴったりのバンドなんだよ、いやほんとに。だって、いつも演奏は「フルフルズ」→「いっぱいいっぱい」なバンドですから。

演奏する曲目は大橋のココスで椎葉さんと相談して決めた。それについてはまたの機会に。そうそう、個々の作品のタイトルはあるんだけど、総合的な全体のタイトルをつけたくなって、いろいろ考えた。決定したのを別府に言ったら、一発OK。

Will You Still Love Me Tomorrow

これが総合なタイトルです。フフ。
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風通信189

2020/06/06(Sat)
風通信 |
高校3年生に対して文章を求められた。元の文は長いので
ちょっとはしょって、その一部を載せます。
最後のパラグラフは、部分的に村上春樹の文章を基にしています。
芝居とは関係なしよ(苦笑)


自分では想像すら出来ないことがこの世には起こる。

 20110311。車を走らせていた僕はカーラジオでアナウンサーの押し迫った声を聴いていた。自宅に戻って、いちおう確認しようというくらいの気持ちでTVのスイッチを押したんだ。画面はおそらくヘリコプターからの映像なのだろうが、何を映しているのかよく分からなかった。土色のキャンパス布を何かが一瞬の淀みもなくまるで黒い液体が染み込むようにどす黒い色に変えていく。アナウンサーの「これは水です。迫っています。」と繰り返される言葉。そして、その日の夜、次々に放映される水に浮かべた模型のように家々を飲み込んでいく津波の渦を見ながら僕は言葉を失った。そして多くの命が失われた。

 202005××。人類が滅亡した後、景観だけが残されたような都市。リドリー・スコットがメガホンを取った近未来の映画のようだった。人が一人として歩いていない渋谷のスクランブル交差点やネオサインが誰に見られるともなく点滅するタイムズ・スクエア。パリの18区、モンマルトルの丘の階段に溢れていた喧噪が聞こえない。まるでジョルジュ・デ・キリコの絵画だ。けれどそのすべてが幻想ではなく、Phenomenon of truthだった。この二つの現実。自分の生涯でこんな情景を五感で知ることがあるとは思ってもみなかった。自分では想像すら出来ないことがこの世には起こるんだと思った。そして、言うまでなくグローバル化した世界中で信じられない数の命が失われた。

 長く生きていると、さまざまな死に出会う。僕もこころざし半ばで倒れたいくたりかの友人がいる。残された僕はちゃんと生きているだろうかと自問することがある。すると自分の人生について改めて気づいてしまうんだ。僕の人生はけっこういい加減です。でたらめなこともしているし、嘘もつくし、約束も破る。パンを食べれば必ずパンくずを落とすし、CDプレーヤーのスイッチは間違いなく消し忘れる。君たちの名前もなかなか覚えられない。身勝手だし、自己弁護はするし、我知らずいろんな人を傷つけても来た。嫌になる。それでもときどき、思うことがあるのだ。亡くなった人の分も生きていかなくてはならないと。日常生活の中で「いやだなぁ、こんなこと」とか、「やってられねぇよ、うんざりする」とか思いそうになると、思い半ばで死んじゃった人のことを思う。そして「がんばらなくちゃ」と自分に言い聞かせる。

 この3ヶ月、君たちは何を考えたんだろう。

 君たちは年が明けると、高校を卒業することになるよね。大学に行く人もいるし、専門学校の扉を開く人もいる。社会人として踏み出すことを選択する人もいるだろう。でも、どの道を歩くにしても君たちの人生には何の保障もないという事実は見つめなければならない。何が起こるか分からないのがこの世の中だからだ。今度の伝染病は、そのことを僕らに教えてくれた。では、どうすればいいのか? 答えはたぶん一つしかない。いま目の前にあることに誠実に向き合うことだろう。アルベール・カミュは『ペスト』という小説の中で情況に誠実に向き合う人間を描き切っている。君たちは誠実に向き合えただろうか。だからね、そういう意味で今回のコロナ・ウイルスによる空白の時間は大事だった。おそらくYouTubeとか見まくっただろうね。そのことが頭ごなしに悪いこととは言わないけどさ。しかし、今回の休校は「考える」よい機会だったんだ。何も考えなかった人は、今からでも遅くはない。人は「それでは遅い」とか「まだ早い」とかいろいろに言うけれど、時間は単線で動くものじゃないのだから、いつだって、遅いということはないんだ。思ったときがすべてのはじまりなんだよ。

 なぜ大学進学を思ったのか。今、その答えを見つける時間は残念ながら君たちに残されてはいない。大学に進学するためには何をしなければならないかが分からない人はいないはずだ。仮に分からない人がいたとすれば、その人は大学進学を止めた方がいい。大学に進学するだけが人生じゃないし。それに大学に行けばそれなりの就職が出来るだろうというのは単なる蓋然性に過ぎないんだし。その一方で運動が苦手な人がいるように、勉強が苦手な人もいるはずだ。もう勉強はしたくないから大学へは行かない、という選択をする人もいるだろう。そんな明確な意思があればそれはそれで素敵なことなんだろうと思う。

 結局のところ、君たちはどのように生きていくのだろうかが、いま問われている。

 生きていくのに大事なことは、現実の観察と内面への想像力だ。その二つのどちらかがない人間は政治家をはじめとして実はたくさんいる。ネットで他者に対して誹謗中傷する輩も多い。彼らはなぜそうであり続けるのか。答えはシンプルです。現実の観察と内面への想像力、その二つを手に入れるのは容易なことじゃないからだ。でも出来ないことはない。手に入れるために必要なのは「知性」に尽きると思う。では、その「知性」を身につけるのはどうすればいいか。それは君たちのような年齢の時に、しっかりと誠実に学び、考えることしかない。君たちはどう生きていくのか。人間の得意技のひとつに、自分を騙すということがあるし、人は時としてその陥穽に嵌まりやすい。しかし、だからこそ、もう一度、少しでもいいからどう生きるのかという問いに向き合ってもいいかもしれないと思うのです。

 ところで、新型コロナ感染が拡大するアメリカで、映画俳優のトム・ハンクスがオハイオ州の大学で語った卒業スピーチは感動的だったよ。「君たちの人生についてこう語ることになるだろう。コロナ以前はこうだった。巨大なパンデミック以前は、とね。他の世代で語られるように、君たちの人生は永遠にコロナ以前として定義されることになるだろう。・・・我々はウイルスを克服した“その後”を生き続けることになる。大きな犠牲を強いられる事態を君たちは生き抜くことになる。そして、平常化を再始動させる役割を果たす」

 君たちの中には、ユーラシア大陸の東の隅で、四つの巨大なプレートの上に乗っかるような、ヤバイかっこうで位置しているこの土地に営々と流れ続けてきた人間たちの魂の欠片がある。日本人に生まれたということを言いたいわけじゃないよ。先年帰天されたドナルド・キーンという国文学者は20代までアメリカで生きてきて、その後この土地に移住し、ひとりの人間としてこの土地の魂を持って生き抜いた。つまりこの土地で生きるということを言っているんだ。先に述べたように僕らは「無常」という移ろいゆく儚い世界に生きている。生まれた生命はただ移ろい、やがて例外なく滅びていく。大きな自然の力の前では人はほんとに無力な存在だけど、そのような儚さの認識は、僕らの基本的イデアのひとつにもなっている。しかしそれと同時に、滅びたものに対する敬意と、そのような危機に満ちた脆い世界にありながら、それでもなお生き生きと生き続けることへの静かな決意、そういった前向きの精神性も僕らには具わっているはずだ。僕らは新しい現実を確かに見つめる力と豊かな内面への想像力とを新しい言葉で連結させなくてはならない。そして生き生きとした新しい物語を、そこに芽生えさせ、立ち上げてなくてはならない。それが畑の種蒔き歌のように、自分や人々を励ますことになる。僕らはかつて、まさにそのようにして、この国を再建してきた。その原点に、僕らは再び立ち戻らなくてはならないだろうな。君たちこそがそれを担う人なんだろう。トム・ハンクスが言ったように「大きな犠牲を強いられる事態を君たちは生き抜くことになる」にしても。

 さて、君たちはどう生きるかな。

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