ニュース・日記

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風通信31

2013/05/25(Sat)
風通信 |
風通信30を読んだ若い友人から、
「それってさ、結局のところ、あなたが
若い演劇人の面白さが分からなくなってるからじゃない?」
と言われた。ヤレヤレである。
だから、わざわざ「世代送り」という表現を使ったのに。
あらゆる理解は、誤解の総体であるという言葉もあるけれど、
でも、まあ、そう言われてみれば、
そうなのかもしれません。
僕は毎月の墓掃除に余念がないセミ老人だしね。

それで思い出した話がある。
油井正一さんのエピソードだ。
油井正一と言っても、今の人は知らないだろうな。
ジャズ評論家です。
1973年から1979年にかけてFM東京などで放送された
「アスペクト・イン・ジャズ」を担当していた。
平日の深夜、たしか午前1時からのプログラムだった。
だいたいにおいてそうであるように、
僕の記憶は曖昧だから、
(ホントになんにも覚えていないのね、と、しょっちゅう呆れられます)
確かなことは分からないけれど。
当時、ステレオ装置なんて、お金がない僕には買えなかったから、
ソニーのカセット付きポータブルラジオで聞いていた。
今でも、何回かの録音がカセットテープとして僕の音源棚に入っている。
渡辺貞夫の「マイ・ディア・ライフ」の何本かと一緒に。
ジャズの素晴らしさを知ったのもその番組だし、
どこがどのように素敵なのかを
言葉で表現することを学んだのも油井さんの、あの嗄れただみ声の、
それでいて妙に心に染みる話し言葉からだった。
ついでに言うと、凄くきれいな声よりも、
だみ声の方が人の心を揺さぶるという研究報告が音声学会にはあるそうな。
その代表例が、田中角栄だそうです。ほんとかしら?

その油井正一さんが、
オーネット・コールマンなどのフリージャズが分からないといって、
ジャズ評論から身を引いた大橋巨泉に、
「大橋君、それもジャズ、これもジャズなんだよ」と言ったというエピソード。
もっとも正確な言葉はそうじゃなかったかもしれないけれど、
だいたいそんな感じの言葉。
評論家の面目躍如の言葉ですね。
おそらくジャズが生まれて、デキシーからバップ、そしてクール。
その果てにフリーと綿々と続くスタイルにはその必然性があるのだろう。
演劇だって、新劇から演劇第一世代、第二世代、
そして、いわゆる静かな演劇と続くには、同じように必然性があるはずだ。
とは言っても、僕は演劇評論家じゃないから、
静かな演劇って、演劇なの? と思うし、
状況芝居は、長目のコントなのね、と納得してしまう。

・・・と、これを書いていたら、
ラジオで、渡辺貞夫の最新アルバムがリリースされたとあった。
「Outra Vez」
ええ? もう、80歳か・・・。ウム。
昨年だったか、下関のライブハウスでの演奏を聴いたのだが、
相変わらずの宇都宮弁だが、服装はオシャレで、音楽への愛が溢れていて、
どうせ年を取るなら、あんなふうに年を取るべきだなと思った次第。
話にまとまりが付きそうにないので、これで終わります。

あ、6月からの新作が決定しました。
タイトル、『ワーニャ・レッスン』。
・・・でへ。
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風通信30

2013/05/22(Wed)
風通信 |
岩波書店のPR誌「図書」という雑誌がある。
そこに、赤川次郎が連載しているエッセイがあって、
これがなかなか面白い。
赤川次郎と言えば、『三毛猫ホームズ』などの小説で知られているが、
このエッセイには、
文化や世評に対する見解には、真っ当で真摯な硬派発言もあり、
さらには、豊かな教養に裏打ちされた知的な遊びがある。
ちなみに、タイトルは『三毛猫ホームズの遠眼鏡』。
おい、それはちょっとまずいんじゃないか? 
と岩波編集部につっこみを入れたくなります。
ともあれ、
その5月号は、観劇の話だった。

福田善之先生の『長い墓標の列』

福田先生とは一度宴席でご一緒したことがあり、
そのバイタリティーと鋭い視線に、圧倒された記憶がある。
すでに齢八〇を越えていらっしゃると思うけれど。

その文章の中に、古河耕史の名前があった。
「見る者を圧倒する説得力で演じている」とある。
とても嬉しい。
僕の仕事は、ロイター板のようなものだから、
15歳から見ていた彼がこうした形で知られるようになるのは、
遠い昔にいい加減な気持ちで撒いた種が、
いつの間にか美しい花を咲かせたようで、なにより嬉しいことだ。

でも、ここで言いたいのは、そのことではない。
コミュニケーションの問題である。
ここからは、ちょっと面倒な話になりそうなので、
僕のように面倒くさがりのあなたは、
薫り高いアールグレイでも飲んで、
モーツァルトのピアノソナタ13番でも聞いた方がいいです。
きっと、幸せな気持ちになります(笑)

最近、芝居がちっとも面白くないのだ。
コント流行で、演劇とコントの境目がはっきりしない、
俗に言う「シチュエーション芝居」。
いや、それらをむやみに否定しているわけではない。
おそらく、それは世代送りということなのだろうとは思う。

先の、赤川次郎の文章の中に次のようなセンテンスがある。
引用します。
「『思想言論の自由』、『理想と現実』を、
燃え立つような言葉にしてぶつけ合う『演劇』」。
ここには、言葉、すなわちその人間の存在があり、
その存在がぶつかり合うことで成立するドラマがあるということなのだろう。
そしてこのドラマこそが
コミュニケーションのひとつの在り方を示していると思う。
言ってみれば、人間と人間のぶつかり合いとでも言おうか。
僕らは、そういう時代に生きてきたし、
そうやって演劇を知ってきたから、
深い共感と共に、「演劇の力」を感じるわけですね。
ところが、今の流行の演劇は人の思いよりもまず状況があり、
その状況の中で人が言葉を交わすという構図が見える。
笑いを取ったり、斜に構えて見せたり。たとえば、
「泣ける」ということは魂を揺さぶることはなく、
ペラペラの表層にツンと刺激を与えて涙腺を緩めるというか。
本当は、その下に井戸があるのに、
光の届く範囲で底が見えてしまったような感覚。
ことは演劇だけにかぎらないのかもしれない。
本当のコミュニケーションとは、
(というといかにも年寄りじみてます、まあ、僕は年寄りだけどね)
おそらく身体に裏打ちされた言葉の交換だろうと思うんです。
だから、役者は身体を鍛えなくちゃいけない。
言葉の表現を磨かなくちゃいけない。
でも、そんなものはひとまず置いて、
面白ければ結果オーライ、それが今の状況かなと。
だから、「世代送り」なのだ。
僕には僕の世代があり、今の若い演劇人には彼らなりの世代観がある。
テレビを見れば、状況に機敏に反応するお笑い芸人ばかり。
どこが面白いのか、よく分からない。
舞台でも、お笑い芸人のノリのようなコントまがいの状況芝居。
致し方ありません。で、僕は、
・・・だからね、
最近、ちっとも芝居が面白くない。
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明日は、「新人月間」公演。

2013/05/07(Tue)
お久しぶりです。川中です。


で、いろいろあって、稽古も久しぶりの参加、
タイミング良く次回作の稽古初日でした。

詳細は、後日アップされると思いますが、
楽しみな仕上がりになりそうです。

「新人月間」公演も楽しみな仕上がりになっているようです。
(というのも、本公演に参加できていないのです。)

残すところ、5月8日と5月15日。
みなさま、是非お立ち寄りください。





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