ニュース・日記
劇伴(厳密に言えば劇伴ではなく劇中挿入曲)について話そう。
以下に書くことは、劇伴に市販のCD音源をもし使うとしたら、
という、あくまで仮定の話です。
たとえば『リア王』。
この物語は、おそらく古代のブリテン国と想定されているようなので、
まず、その劇伴は「ケルト音楽」にしたら良かろうと思うんですね。
アイリッシュ・ウイスキーはスコッチと違って、
どことなく軽みがあって、まさに天使のため息といわれる所以だけど、
音楽のアイルランド音楽も、ディープなものは言いしれぬ味がある。
エンヤなんかを聴いていたら、ちょっと違うかもデス。さて、
そう決まったら、集められる曲を可能な限り集めるわけだ。
ちなみに僕の手持ちのCDは10枚くらいあるので、
それ以外に30枚くらいかな。
福岡市近郊の図書館は広域利用可ということで
福岡市民にもCDを貸してくれる。
で、春日市、大野城市、太宰府市、糸島市などの図書館で、
時間はかかるけれど、せっせと集められるだけ集める。
もちろん、TSUTAYAなどのCDショップにも行く。
CDを買う予算はないので、ひたすら借りる。
そして、ひたすら聴きまくる。
ひとつの芝居で少なくとも300曲くらいは聴かないと。
1000曲まで行けばだいたいOK。つまり、見つかります。
台本の字面を眺めながら、ここは音が欲しいとか、考えるわけですね。
実際に台詞を自分で言いながら、曲を流してイメージを掴む。
これはなかなか怪しい作業になる。
いいオジサンが、
夜中にぶつぶつ言いながら何回もリピートを繰り返す。
ただし、このとき注意しなければならないのは
歌モノを使うのはNGということですね。
台詞と相殺される。歌モノは、エンディングに使うことが多いなぁ。
また、実際に稽古中にも、ここに音があればいいのに
とか思いながら「返し稽古」を繰り返す。
最終的には、厳密にこの台詞の「この言葉」からゲージを上げていってぇ・・・
などの判断をしていき、音響オペレーターに伝える。
(いつもの音響サン、いつもワガママ言ってごめんね)
劇伴はとても重要で、
これの選択ひとつで、オーディエンスの心を揺り動かすことができる。
それはたぶん音楽の力だ。
音楽は僕らの心に矢のように直線的に、あるいは総括的に突き刺さる。
ところで、演出を付けるときに、
ここできっとオーディエンスの鼻の奥がグスッとするよなぁと、
深く確信できるときがある。
これもたとえばだけど、
後藤 香さんの昔の作品「Dear Dear」なんかで、
最後におばあちゃんが孫娘の身代わりになって死ぬ場面。
椅子に座ったままで、天国に行く・・・という演出意図。
それは「祈り」に通じるし、この上ない幸せだという演出意図。
照明にもちょっとした工夫をいれて、
そこに、イーグルスの『デスペラード』をそっと流す。
観ている300人の人の内、まあ、270人がハンカチを出しはじめる。
しかし、これを決めるまで、実にクラッシックからロックまで、
膨大な曲数を心に落とし込む・・・という作業が必要なんです。
おばあちゃんの台詞が終わると同時にボーカルが入らねばならない。
そのためには、秒単位で尺を測る。
このタイミングは1秒も狂ってはいけない。
その前にたとえば西村由紀江の曲をクロスで繋いだり。
また、たとえばだけど、
『桜の園』で、ラネーフスカヤがパリから戻ってくる。
その時彼女が聴いていた音楽は何か。
チェーホフが死んだのが1905年だから、だいたいその時代。
(『桜の園』は最晩年の作だし・・・)
そうするとシャンソンではなく、まだミュゼットの時代だろうと考える。
実際は、もう少し後かな・・・。
まあ、そこで、ミュゼットの音源を探す。
ところがこれはなかなかないんです。
やむなく、ネットで購入しなければならない・・・こともある。
零細劇団の出費としては痛いですね。
だけど、必要なんだから。
う〜んと、あ、『ワーニャ伯父さん』。
これは、方法が二つあります。
まず、オーソドックスな方法は、
全体のトーンが渋い上に、静かなドラマがあるので、
クラシックで行こうと。
そして、もちろん、それは室内楽を中心とした黄昏のイメージとする。
ならば、オーボエがよかろう、とまでは考える。
というわけで、コンチェルトまで幅を広げて、
モーツアルトあたりから聴き始める。
しかし、心にしみるようなオーボエの曲はロマン派につきます。
そこで、サン・サーンスから
ロベルト・シューマン(素晴らしい曲が一杯!)あたりを探る。
まあ、さらにブラームスまでくらいはさかのぼってもいいかもね。
もうひとつの方法は、モダンジャズで行くというのはどうでしょう。
これは一発で決まる、というか、これしかないだろうと。
マイルズです。彼のミュートトランペットは、
屈折したワーニャの心情を柔らかく照らしてくれる。
深夜、セレブリャーコフがエレナと話す場面。
カードをめくり続けるエレナに絡むセレブリャーコフの
ぐちぐちした言葉に、
微妙なミュート・トランペットの音でモードは決定し、
客観性を担保してくれる。
to follow next
以下に書くことは、劇伴に市販のCD音源をもし使うとしたら、
という、あくまで仮定の話です。
たとえば『リア王』。
この物語は、おそらく古代のブリテン国と想定されているようなので、
まず、その劇伴は「ケルト音楽」にしたら良かろうと思うんですね。
アイリッシュ・ウイスキーはスコッチと違って、
どことなく軽みがあって、まさに天使のため息といわれる所以だけど、
音楽のアイルランド音楽も、ディープなものは言いしれぬ味がある。
エンヤなんかを聴いていたら、ちょっと違うかもデス。さて、
そう決まったら、集められる曲を可能な限り集めるわけだ。
ちなみに僕の手持ちのCDは10枚くらいあるので、
それ以外に30枚くらいかな。
福岡市近郊の図書館は広域利用可ということで
福岡市民にもCDを貸してくれる。
で、春日市、大野城市、太宰府市、糸島市などの図書館で、
時間はかかるけれど、せっせと集められるだけ集める。
もちろん、TSUTAYAなどのCDショップにも行く。
CDを買う予算はないので、ひたすら借りる。
そして、ひたすら聴きまくる。
ひとつの芝居で少なくとも300曲くらいは聴かないと。
1000曲まで行けばだいたいOK。つまり、見つかります。
台本の字面を眺めながら、ここは音が欲しいとか、考えるわけですね。
実際に台詞を自分で言いながら、曲を流してイメージを掴む。
これはなかなか怪しい作業になる。
いいオジサンが、
夜中にぶつぶつ言いながら何回もリピートを繰り返す。
ただし、このとき注意しなければならないのは
歌モノを使うのはNGということですね。
台詞と相殺される。歌モノは、エンディングに使うことが多いなぁ。
また、実際に稽古中にも、ここに音があればいいのに
とか思いながら「返し稽古」を繰り返す。
最終的には、厳密にこの台詞の「この言葉」からゲージを上げていってぇ・・・
などの判断をしていき、音響オペレーターに伝える。
(いつもの音響サン、いつもワガママ言ってごめんね)
劇伴はとても重要で、
これの選択ひとつで、オーディエンスの心を揺り動かすことができる。
それはたぶん音楽の力だ。
音楽は僕らの心に矢のように直線的に、あるいは総括的に突き刺さる。
ところで、演出を付けるときに、
ここできっとオーディエンスの鼻の奥がグスッとするよなぁと、
深く確信できるときがある。
これもたとえばだけど、
後藤 香さんの昔の作品「Dear Dear」なんかで、
最後におばあちゃんが孫娘の身代わりになって死ぬ場面。
椅子に座ったままで、天国に行く・・・という演出意図。
それは「祈り」に通じるし、この上ない幸せだという演出意図。
照明にもちょっとした工夫をいれて、
そこに、イーグルスの『デスペラード』をそっと流す。
観ている300人の人の内、まあ、270人がハンカチを出しはじめる。
しかし、これを決めるまで、実にクラッシックからロックまで、
膨大な曲数を心に落とし込む・・・という作業が必要なんです。
おばあちゃんの台詞が終わると同時にボーカルが入らねばならない。
そのためには、秒単位で尺を測る。
このタイミングは1秒も狂ってはいけない。
その前にたとえば西村由紀江の曲をクロスで繋いだり。
また、たとえばだけど、
『桜の園』で、ラネーフスカヤがパリから戻ってくる。
その時彼女が聴いていた音楽は何か。
チェーホフが死んだのが1905年だから、だいたいその時代。
(『桜の園』は最晩年の作だし・・・)
そうするとシャンソンではなく、まだミュゼットの時代だろうと考える。
実際は、もう少し後かな・・・。
まあ、そこで、ミュゼットの音源を探す。
ところがこれはなかなかないんです。
やむなく、ネットで購入しなければならない・・・こともある。
零細劇団の出費としては痛いですね。
だけど、必要なんだから。
う〜んと、あ、『ワーニャ伯父さん』。
これは、方法が二つあります。
まず、オーソドックスな方法は、
全体のトーンが渋い上に、静かなドラマがあるので、
クラシックで行こうと。
そして、もちろん、それは室内楽を中心とした黄昏のイメージとする。
ならば、オーボエがよかろう、とまでは考える。
というわけで、コンチェルトまで幅を広げて、
モーツアルトあたりから聴き始める。
しかし、心にしみるようなオーボエの曲はロマン派につきます。
そこで、サン・サーンスから
ロベルト・シューマン(素晴らしい曲が一杯!)あたりを探る。
まあ、さらにブラームスまでくらいはさかのぼってもいいかもね。
もうひとつの方法は、モダンジャズで行くというのはどうでしょう。
これは一発で決まる、というか、これしかないだろうと。
マイルズです。彼のミュートトランペットは、
屈折したワーニャの心情を柔らかく照らしてくれる。
深夜、セレブリャーコフがエレナと話す場面。
カードをめくり続けるエレナに絡むセレブリャーコフの
ぐちぐちした言葉に、
微妙なミュート・トランペットの音でモードは決定し、
客観性を担保してくれる。
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どうやら、粗方の残務整理も着地点が見えてきたようだ。
『リア王』だけのことに限れば、の話だけど。
それより、15年だ。
もちろん、15年の歳月は半端な年月、時間ではない。
ひとまとめにして、
大きな引き出しの奥に突っ込んでしまいたいくらいだ。
でも、たとえば
僕と10歳も離れてもいない栃原との時間の進み方にしたところで
少しずつずれているのかもしれない。
同じ風景でも見る人によって違うように、
時間だって人によって進み方は違うのだと思う。
その感覚は年齢ではないのだ。
52歳でも25歳のような時間の進み方を持つ人がいるはずだし、
26歳でも62歳のような時間の進み方をしている人がいるはずだ。
だから、おそらく年齢ではないのだ。
そんな数字としての年齢より、
人としての生き方の問題なのではないだろうか。
それでもね、おそらく間違いないのは、
年を取ると時間というのが重さを持つということだ。
若ければ、羽根のように軽い。
年を重ねることの良さはあるんだけど、
ときどき、柔らかで静かな春の雨さえもが重く感じることが
・・・そう、ないでもないのです。
世の中には、天国のような弦楽四重奏曲を創る人もいれば、
肉厚の鮮やかな赤いパプリカや
噛むとカリッと音のする太い胡瓜を創る人もいる。
僕は芝居を創る人で、
創る人間というのは、先のことにしか興味がない。
でもさ、この先に何があるんだろうか。
太陽はいつだって生まれたてだと知ってはいるけれど。
繰り返す波が教えるのは、
ただの一度もほんとうの繰り返しはないということなのに。
木の枝に張り付いた虫の抜け殻のように、
強い風が吹いたらどこかに永遠に飛ばされそうです。
昨夜、
中州の中華創作居酒屋を借り切って『リア王』の打ち上げがあった。
下は19歳から、上は65歳までの関係者のほぼ全員が集まった。
この幅の広い年齢の人間が
ひとつの空間と時間を共有することの不思議さ。
・・・そこで、何人かの人に言われた。
「安永組」は次は何をしますか?
「安永組」か。。。。
『リア王』だけのことに限れば、の話だけど。
それより、15年だ。
もちろん、15年の歳月は半端な年月、時間ではない。
ひとまとめにして、
大きな引き出しの奥に突っ込んでしまいたいくらいだ。
でも、たとえば
僕と10歳も離れてもいない栃原との時間の進み方にしたところで
少しずつずれているのかもしれない。
同じ風景でも見る人によって違うように、
時間だって人によって進み方は違うのだと思う。
その感覚は年齢ではないのだ。
52歳でも25歳のような時間の進み方を持つ人がいるはずだし、
26歳でも62歳のような時間の進み方をしている人がいるはずだ。
だから、おそらく年齢ではないのだ。
そんな数字としての年齢より、
人としての生き方の問題なのではないだろうか。
それでもね、おそらく間違いないのは、
年を取ると時間というのが重さを持つということだ。
若ければ、羽根のように軽い。
年を重ねることの良さはあるんだけど、
ときどき、柔らかで静かな春の雨さえもが重く感じることが
・・・そう、ないでもないのです。
世の中には、天国のような弦楽四重奏曲を創る人もいれば、
肉厚の鮮やかな赤いパプリカや
噛むとカリッと音のする太い胡瓜を創る人もいる。
僕は芝居を創る人で、
創る人間というのは、先のことにしか興味がない。
でもさ、この先に何があるんだろうか。
太陽はいつだって生まれたてだと知ってはいるけれど。
繰り返す波が教えるのは、
ただの一度もほんとうの繰り返しはないということなのに。
木の枝に張り付いた虫の抜け殻のように、
強い風が吹いたらどこかに永遠に飛ばされそうです。
昨夜、
中州の中華創作居酒屋を借り切って『リア王』の打ち上げがあった。
下は19歳から、上は65歳までの関係者のほぼ全員が集まった。
この幅の広い年齢の人間が
ひとつの空間と時間を共有することの不思議さ。
・・・そこで、何人かの人に言われた。
「安永組」は次は何をしますか?
「安永組」か。。。。