ニュース・日記

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風通信103

2017/06/24(Sat)
風通信 |
今夜は、雨の夜です。
夜の雨はいい。

BGMは、山下和仁の無伴奏チェロ組曲。
言わずと知れたバッハです。
好きな言葉じゃないけれど、まさに超絶技巧。
しかし、それと感じさせない。
雨の夜にはふさわしい・・・と思う。

102便に、メールボックスのことを書いていたら、
早速、メールを送ってくれた人がいた。
読んでくれてるんだ! 奇特な!
それにしても優しいなぁ。
優しい人は受難者となる場合が多いので、
そういう内容の返信をしようと思ったけれど、
キーボードの上で手が止まってしまった。
もっと、ハッピーなことを書きたい。

昨日は、ほぼ1年ぶりに、芝居なるものを観た。
再演とは書いてなかったけれど、
あの劇団としては再演じゃなかったかしら。
相変わらず、肩の力が抜けて、愉しい芝居。
役者ものびのび。
僕にはああいう芝居は創れないから、羨ましい。
凄い金魚(の化身)に扮していたM君を久しぶりに見た。
巧くなっていて、びっくりした。
もともと間の取り方は巧かったけど。

いくつかの経験は多少なりとも人を変えるはずで、
どう変わるかはもちろん人によりますけどね。

Uさんも
演っていて気持ちがいいだろうなぁというような演技。
ツボにはまっていましたな。
彼が号泣するところは、
オーディエンスはしみじみ胸に迫るシーンなんだけど、
僕はおかしくて思わずフッと吹き出したら、
隣の席の人から、振り向かれた。
きっと変な人と思われたに違いない。
あるいは、ムッとしたかもね。
でも、可笑しかったんだもん。
役者が泣けば、それを観て観客は笑う、
役者が笑えば、それを観て観客は泣くという
そういう愉しみ方はあるような気がするんだけど。
もともとさ、
人間の心理状態なり、性格なりを表すとき、
悲劇とか喜劇とか分けることは出来ない。
そのことはすでに、
18世紀にモーツアルトがオペラで証明している。

オムレツを焼くために、卵を割る。
その行為だけで、
笑うことも出来るし、泣くことも出来るわけだしさ。

だいたいにおいて、
人の心というものは、習慣や常識では規制できない。
それは自由に羽ばたき、移動する。
渡り鳥が国境という概念を持たないのと同じです。

次の芝居は、7月のナショナル・シアター・ライブ。
5月の『ハングメン』のオーディエンスは
僕を含めて3人だった。
7月は『THE DEEP BLUE SEA』。ちょっと楽しみです。
・・・5人くらいはいるかな。
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風通信102

2017/06/22(Thu)
風通信 |
昨日は夏至でした。
日々の仕事に追われてうっかり忘れていた。
教えてくれたのは、「歴女」ならぬ「暦女」のGF。
流されていく日常を軽やかに分節化してくれる。
二十四節季とまではいかないけれど、
季節の変わり目にはいろいろ教えてくれる。
日本にはいないはずなんだけど。

FBや、つぶやきなんたらはしないので、
外部からの連絡は、たまさかのメールくらい。
メールボックスには一週間、
まるごと空っぽということがほとんどです。あは。
携帯のコールなんて、絶望的に鳴らない。
なかなかさわやかではある。
ちなみに今月は事務処理で当方からは二度、
お役所に連絡を取ったくらい。

それだけに、暦女のメールは貴重だ。
ありがとう。

そう、昨日は夏至でした。
なかなか陽が落ちない。
はじめて東京に行った年の深まりゆく秋。
大学で5限目の授業を終えて、教室を出たら、
外は真っ暗。
ああ、「東」に来たんだと散文的な感想を持った。

閑話休題

先日、吉田健一のエッセイを読んでいたら、
胡桃をつぶしてオリーブオイルで練り合わせたらしい
食後に食するスペインのお菓子の話があった。
ちょっと美味そう。
何という名前なのかなぁ。
スペイン生活が長い暦女に聞いてみようかな。

そのエッセイには、酒を飲む時の心得があって、
「犬が寒風をさけてひなたぼっこをしているようなものだ」
という。
僕はほとんどアルコールを嗜まないけれど、
なんとなく、そういう飲み方なら悪くないと思う。
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風通信101

2017/06/07(Wed)
風通信 |
昨年の6月に、若い友人が亡くなった。
ちょうど1年が経過した。

詳しいことは知らない。
今年、年賀状を出したところ、
ひと月ほどして、それを知らせる
母上からの手紙が届いたのだった。
亡くなったことさえ、知らなかったのだ。
40歳を前にしての別れ。

数年前にささやかな席で愉しく話をしたけれど、
僕の知っている18歳の時のままの、
そのときの面影がいつまでも残っている。
明るく、愛すべき天然。
やりたいことがいっぱいある、って・・・。
トルストイの小説に出てくる
永遠に真っ直ぐな農道を走り続けて、
そのまま帰って来なかったように。

いつでも、悔いは残るのだ。
もっと、会っていればよかっただの、
言葉を伝えていればよかっただの。

いつでも思うことだが、
自分が年齢を重ねていて、そしてある時、
若い人が亡くなったと聞くと、
ただただ言葉を失う。
悲しいという言葉は想いを表すには足りないのです。
でも、きっと無理に言葉にしてはいけないのだ。
言葉にならないままのものを
静かにじっと胸に抱いている方がいい。

美しい字を書く子だった。
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風通信100

2017/06/05(Mon)
風通信 |
先日、キャナルシティのMUJIに行った。

NPO法人エフパップの理事長時代は、場所柄、
週2回は普通に行ってたのに、最近はとんとご無沙汰で。

キャナルのMUJIは2フロア仕様。
3Fにはまるで本屋みたいに沢山の厳選された本がある。
今ハヤリの「こだわりの書店」みたいな感じ。
最近は、ほとんどネットで本を購入するので、
本やそのものに行くことはまずないから、
本棚を眺めて、
気になった著者やタイトルを目で追っていくという、
あの空気は久しぶりだった。

アラン・ロブ=グリエや、ルイ=フェルディナン・セリーヌ、
そしてレイ・ブラッドベリの横にガルシア・マルケス、
ホルヘ・ルイス・ボルヘスが並んでいて、
なぜかチャールズ・ブコウスキーの最晩年のエッセイがある。
そういえば、サン・テグジュペリもあった。
そんな本棚。
僕に残された時間はそんなに多くはないので、
この中で何冊読めるだろうかとふと、考えてしまった。
最近は小説をほとんど読まない。
きっと体力が落ちたんだと思います。

はじめて読んだ外国の小説は何だったろう・・・。
と考えて、そして思い出しました。

僕の初恋は、中学1年生の夏。
ジュラ紀か白亜紀みたいに遠い昔の話だなぁ。
相手は、村上キヌ子さんという女の子で、
当時同じ中学校の2年生だった。

僕は徒歩通学だったのだが、彼女はバス通学。
水色の夏用のセーラー服を着て、バス停にいた。
一瞬で見ている風景が変わったのを覚えている。
それは、かなり理不尽。
アイルランド出身の女優モーリン・オハラみたいでした。
そのころ、僕は父親と一緒に毎週日曜洋画劇場を見ていて、
『我が谷は緑なりき』などの
ジョン・フォードの映画に出てくる彼女は
世界一美しい人だなと思ってたから、そっくりに見えたんだと思う。
色が白くて、髪が豊かで。
でも、ちっとも似ていなかったようにも思う。

人は記憶を捏造するし、書き換えをする動物だから、
自分なりに合理化を図ったのかもしれない。

ある日、たまたま図書館で手に取った本の貸し出しカードに、
彼女の名前を発見した時は、狂喜した(ように思う)
今の人は分からないだろうが、
昔は本の一冊一冊に貸し出しカードが付いていて、
誰が借りたか分かるシステムだったんです。

その本はアーネスト・ヘミングウェイの『武器よさらば』だった。
もちろん、僕はその本を借りて、すぐに読みましたよ。
残念ながら物語の粗筋くらいしか分からなかったなぁ。
先に読んだ彼女もきっと分からなかったのではないかと思う。
地方都市の中学生が
第一次大戦の惨めなイタリア戦線を知るはずもなく、
ある意味でのハードボイルドなドラマは
「理解」を超えた作品だったんじゃないだろうか。
でも、おそらく中学生の読書とはそういうものだろうし、
それがある意味ではあり得るべき姿なのかもしれない。
中身の分かる本がすべてではないのだから。
最後まで読めるのなら、分かろうと分かるまいと
その本(小説)の持つ魔力を知ったということなのだ。
まあ、最後まで読まないとあの物語の良さは分からんよねぇ。

村上さんは、私立の女子校に進学し、ブラスバンド部に入った。
一度、聴きに行った記憶がある。
そして、ついに最後まで言葉を交わすことはなかった。
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風通信99

2017/06/01(Thu)
風通信 |
六月になりました。早いものだ。
ほとんど今年の半分が過ぎ去ろうとしています。

谷川俊太郎に「六月のうた」という作品がある。

あの日もあなたを好きだったのに
あんなに哀しかったあの日

あの日も私は私だったのに
あんなに苦しかったあの日

で始まり、

人気のない公園で
いつまでもぶらんこに座っていたあの日
アルバムにないあの日
日記につけられなかったあの日

と続きます。

冒頭の二連はそれぞれ二行構成。
シンタクス上、二つの意味内容が、
「のに」という逆説関係で連接している。
ところが、この逆説関係は、
順接関係でも表現することができると思うのです。

失礼を承知で、書き記すと、

あの日もあなたを好きだった から
あんなに哀しかったあの日

あの日も私は私だった から
あんなに苦しかったあの日

となります。

人を好きになるということは、
たぶん、哀しみを引き受けることになる。
そんな気がします。
私が私であり続けるかぎり、
それはやはり、かなり苦しいことではないでしょうか。
自分は大事だけれど、
自分が自分であるためには、
他者との繋がりがどうしても必要になる。
というかさ、
他者がいるからこそ自分がある。
そんな気がしている。
俺は俺で好きに生きるぜ、というのは格好いいけれど、
ずいぶんお気楽なスタンス。

僕なんか、
誰かにこの身を預けることが出来るなら、
それはそれで幸せのような気もするのです。
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