ニュース・日記
今日、関東では木枯らしが吹いたらしい。
2週連続の台風は、一気に秋を連れてきたようだ。
木枯らしって、初冬ですかね?
台風は、ここ福岡では幸いなことに
二度とも直撃はなかったけれど、
いわゆる「吹き返し」というのかなぁ、
遙か南の海上を過ぎていった後に、
北西の風が吹き荒れた。
電線がヒューヒューと鳴り、
木々はザワザワと大きく揺れる。
夜の風は嫌だなぁ、本当に。
雨ならば、夜の雨、海に降る雨、等々
心が安まるんだけれど。
夜に風が吹くと、
どこから吹いてきて、どこへ行くんだろうと思う。
ちょうど、僕らのささやかな生がそうであるように。
「エリナー・リグビー」ですよね。
All the lonely people Where do they all come from?
All the lonely people Where do they all belong?
2週連続の台風は、一気に秋を連れてきたようだ。
木枯らしって、初冬ですかね?
台風は、ここ福岡では幸いなことに
二度とも直撃はなかったけれど、
いわゆる「吹き返し」というのかなぁ、
遙か南の海上を過ぎていった後に、
北西の風が吹き荒れた。
電線がヒューヒューと鳴り、
木々はザワザワと大きく揺れる。
夜の風は嫌だなぁ、本当に。
雨ならば、夜の雨、海に降る雨、等々
心が安まるんだけれど。
夜に風が吹くと、
どこから吹いてきて、どこへ行くんだろうと思う。
ちょうど、僕らのささやかな生がそうであるように。
「エリナー・リグビー」ですよね。
All the lonely people Where do they all come from?
All the lonely people Where do they all belong?
10月も終わる頃、季節外れの台風でした。
被害に見舞われた地域は大変だったろう。
自然は人間が制御しきれるものではない。
むしろ、自然とどのように共生するかを
時間をかけて考えていかなければならないのだろう。
たとえば、川の氾濫を制御するために、
護岸整備をするというようなお役所的対処療法でなく、
自然のシステムの研究をはじめとする、
人間優先の社会システム、それ自体を
根本的なところから考えるということだ。
福岡は、雨はほとんどなく風ばかりだった。
風はドドドドッと音を立てて、吹き荒ぶ。
ベランダに立つと、
周りの木々が風で大きく揺れている。
建物の壁面に狂った怪物のような影が
街灯の光で大きく作られる。
『ベストセラー(邦題)』という映画の中で、
編集者マックス・パーキンズが、
フランスから帰国したトマス・ウルフに対して
エドワード・ホッパーのタブローみたいな
ニューヨークの街を見下ろしながら、次のようなことを言う。
“先史時代、私達の祖先が身を寄せ合って、火を囲んでいる。
狼の遠吠えが闇に響く、そして誰かが話し始めた。ひとつの物語を。
皆が闇を恐れぬように。”
トマス・ウルフは何も言わずに、
放蕩息子が父親に許しを請うように、
パーキンズの肩に顔を預ける。
この場面の風景は素敵だったし、なかなかいいシーンです。
ノーベル賞を受賞したカズオ・イシグロの作品も、
たぶん、そういうふうに読まれるんじゃないかなぁ。
物語にもし効用があるとすれば、
この言葉に尽きるような気がする。
焚き火の傍らで身を寄せ合いながら、
今日のような長く暗い嵐の夜を過ごす時、
彼らの魂を慰めるものは物語だったはずだ。
木の根っこを囓ったり、
痩せた野鼠の肉を分け合って生きていても、
物語があれば、
明日を生きていけると感じたのではないだろうか。
パーキンズと半ば喧嘩別れした
トマス・ウルフは、37才という年齢で亡くなるけれど、
その死の床で、パーキンズに書き残した手紙がある。
映画の中でも、最後のシーンで引用されます。
“何が起こっても、そして過去に何があったにしても、
いつもあなたのことを考え、あなたに対して
3年前の7月4日と同じ感情を抱いています。
あなたがわたしを船まで出迎えてくれ、
二人で高いビルの屋上にのぼり、
人生と都会の異様さ、栄光、力が
眼下に広がっているのを見たあの日と同じ気持ちなのです。”
人生というのは、かくも哀しく、そして豊かです。
被害に見舞われた地域は大変だったろう。
自然は人間が制御しきれるものではない。
むしろ、自然とどのように共生するかを
時間をかけて考えていかなければならないのだろう。
たとえば、川の氾濫を制御するために、
護岸整備をするというようなお役所的対処療法でなく、
自然のシステムの研究をはじめとする、
人間優先の社会システム、それ自体を
根本的なところから考えるということだ。
福岡は、雨はほとんどなく風ばかりだった。
風はドドドドッと音を立てて、吹き荒ぶ。
ベランダに立つと、
周りの木々が風で大きく揺れている。
建物の壁面に狂った怪物のような影が
街灯の光で大きく作られる。
『ベストセラー(邦題)』という映画の中で、
編集者マックス・パーキンズが、
フランスから帰国したトマス・ウルフに対して
エドワード・ホッパーのタブローみたいな
ニューヨークの街を見下ろしながら、次のようなことを言う。
“先史時代、私達の祖先が身を寄せ合って、火を囲んでいる。
狼の遠吠えが闇に響く、そして誰かが話し始めた。ひとつの物語を。
皆が闇を恐れぬように。”
トマス・ウルフは何も言わずに、
放蕩息子が父親に許しを請うように、
パーキンズの肩に顔を預ける。
この場面の風景は素敵だったし、なかなかいいシーンです。
ノーベル賞を受賞したカズオ・イシグロの作品も、
たぶん、そういうふうに読まれるんじゃないかなぁ。
物語にもし効用があるとすれば、
この言葉に尽きるような気がする。
焚き火の傍らで身を寄せ合いながら、
今日のような長く暗い嵐の夜を過ごす時、
彼らの魂を慰めるものは物語だったはずだ。
木の根っこを囓ったり、
痩せた野鼠の肉を分け合って生きていても、
物語があれば、
明日を生きていけると感じたのではないだろうか。
パーキンズと半ば喧嘩別れした
トマス・ウルフは、37才という年齢で亡くなるけれど、
その死の床で、パーキンズに書き残した手紙がある。
映画の中でも、最後のシーンで引用されます。
“何が起こっても、そして過去に何があったにしても、
いつもあなたのことを考え、あなたに対して
3年前の7月4日と同じ感情を抱いています。
あなたがわたしを船まで出迎えてくれ、
二人で高いビルの屋上にのぼり、
人生と都会の異様さ、栄光、力が
眼下に広がっているのを見たあの日と同じ気持ちなのです。”
人生というのは、かくも哀しく、そして豊かです。
昨日、今日と、雨が降り続けた。
街路樹も濡れ、巷の家々も濡れ、
走る車も、街行く人も、濡れている。
雨は、まだ止みそうにない。
こんな日は、懐かしい恋人と逢いたくなる。
夕方には、垂れ込めた空の下を
烏が一羽、また一羽と西から東へと帰っていた。
激しい雨に打たれて、一瞬、下方に落ちるんだけど、
持ち直して再び彼の決めた高さを飛んでいく。
そう飛ぶしかないのだろう。
風の強い日も、同じだ。
押し戻されようとも怯まずに、
前に向かって飛んでいく。
定められた運命のように。
ヤレヤレ、生きていくというのは、大変だよなぁ。
きっと、
僕らの人生だって、似たようなものなのだろう。
でも、ふと思ったんだけど、
僕らは後ろを向きながら前に飛ぶことが出来るのですな。
昨今の政治状況(総選挙も含めて)を鑑みて、
そのことの重要さに思いを馳せる。
いつか来た道を未来に見つけることが出来そうだ。
街路樹も濡れ、巷の家々も濡れ、
走る車も、街行く人も、濡れている。
雨は、まだ止みそうにない。
こんな日は、懐かしい恋人と逢いたくなる。
夕方には、垂れ込めた空の下を
烏が一羽、また一羽と西から東へと帰っていた。
激しい雨に打たれて、一瞬、下方に落ちるんだけど、
持ち直して再び彼の決めた高さを飛んでいく。
そう飛ぶしかないのだろう。
風の強い日も、同じだ。
押し戻されようとも怯まずに、
前に向かって飛んでいく。
定められた運命のように。
ヤレヤレ、生きていくというのは、大変だよなぁ。
きっと、
僕らの人生だって、似たようなものなのだろう。
でも、ふと思ったんだけど、
僕らは後ろを向きながら前に飛ぶことが出来るのですな。
昨今の政治状況(総選挙も含めて)を鑑みて、
そのことの重要さに思いを馳せる。
いつか来た道を未来に見つけることが出来そうだ。
先週の金曜日、久しぶりの観劇。
演出家も旧知の人で、出演者にも知り合いがいた。
出演者八人の内、三人は一緒に芝居を創った人だった。
作品はガルシーア・ロルカの『ベルナルダ・アルバの家』です。
岩波文庫では、牛島信明さんの訳で、
「三大悲劇集」と銘打ってある中のひとつ。
若い頃、読んでいて、そのときに、
こういう作品は苦手だなぁと思っていました。
その後は、映画で。マリオ・カムス監督の作品。
そのときも、重たくて辛かった記憶がある。
確かに、アンダルシアの小さな村を舞台に、
家の権威を守ろうとした母が生み出した悲劇なんだけど、
なんだか、悲劇とは思えなくなりました。
妙に可笑しく、もの悲しい人間の姿とでも言えばいいかな。
演出のスタンスのせいかもしれないけれど、
ある種の猥雑感があり、それって、
喜劇とまでは言わないけれど、
単純に悲劇とは言えないような気がするのです。
年齢のせいなのかしらん。
来週は、火曜日に
National Theatre Liveの“As You Like It”を観に行く。
愉しい作品ではあるんだけれど、200分の作品。
いつものように20分程度のIntermissionはあるだろうが、
仕事帰りの身体にはちょっと辛いかもしれないなぁ。
寝ないようにしよう(笑)
演出家も旧知の人で、出演者にも知り合いがいた。
出演者八人の内、三人は一緒に芝居を創った人だった。
作品はガルシーア・ロルカの『ベルナルダ・アルバの家』です。
岩波文庫では、牛島信明さんの訳で、
「三大悲劇集」と銘打ってある中のひとつ。
若い頃、読んでいて、そのときに、
こういう作品は苦手だなぁと思っていました。
その後は、映画で。マリオ・カムス監督の作品。
そのときも、重たくて辛かった記憶がある。
確かに、アンダルシアの小さな村を舞台に、
家の権威を守ろうとした母が生み出した悲劇なんだけど、
なんだか、悲劇とは思えなくなりました。
妙に可笑しく、もの悲しい人間の姿とでも言えばいいかな。
演出のスタンスのせいかもしれないけれど、
ある種の猥雑感があり、それって、
喜劇とまでは言わないけれど、
単純に悲劇とは言えないような気がするのです。
年齢のせいなのかしらん。
来週は、火曜日に
National Theatre Liveの“As You Like It”を観に行く。
愉しい作品ではあるんだけれど、200分の作品。
いつものように20分程度のIntermissionはあるだろうが、
仕事帰りの身体にはちょっと辛いかもしれないなぁ。
寝ないようにしよう(笑)
四人の中では、森川がいちばん年下だった。
20代前半の男同士ではたとえ一年であっても、
学年の違いは絶対的なものだ。
だから、みんなから弟のように扱われていた。
それが森川の立ち位置だった。
そのせいでもないだろうが、
森川は面子が足りない時に駆り出されることが多かった。
それは絶対に断ることはなかったように思う。
じゃ、そのとき以外は、何をしていたかというと、
今になってみると、よくそんなことが出来たと思うけれど、
レコードを鳴らしながら、たいていは本を読んでいた。
六月頃だったか、彼が教育実習に行くことになった。
神奈川のある県立工業高校である。
そのときの詳しい話は知らない。
でも、いくぶんかは僕らにも責任があると思うのだけれど、
彼は2週目の月曜日に大遅刻をやらかしたのである。
いやね、日曜日の夕方から始まった勝負が
月曜日の未明まで続いたのです。
すでに勤め人だった一番上の村山は寝たら起きられないと、
始発の電車に乗ったと記憶している。
森川はどうしたか。もちろん寝たのである。
起きたのは午後3時の、すでに陽射しが窓から斜めに差し込む時刻。
実習校に電話を入れたら、
遅くなってもいいから顔を出せと言うことで、
すごすごと駅に向かっていく。
残った僕と野田は、にやにやしながら眺めていた。
たぶん、僕らが求めていたのは時間と自由だったのだ。
それらは、ある程度お金で買えるものだが、
そういう姿勢はたぶん経済の問題とは別の次元のことだ。
もうひとつ、エピソードがある。
森川には付き合っていた女の子がいた。
ミッション系の女子大学に通う女の子だった。
たぶん、実習で遅刻した年の年末のことだ。
彼女から、大学主催の「メサイア」のコンサートに誘われたんですね。
それが土曜日の夜。
僕らは金曜日からほとんど徹夜で。
森川は合唱が会場を満たす中、高々と鼾をかいてしまった。
彼女とはクリスマス、つまりその夜以降、
二度と逢うことはなかったようだ。
それでも、森川はそのことについては、一言も言わず、
今まで通りに家の管理をし、麻雀の面子が足りない時には、
断ることなく付き合っていた。僕らは、
彼が口に出さないことで痛みに耐えていると感じていた。
痛々しいほど僕らも若かったよね。
でも、なにも言わなかった。
その半年後、僕らの生活は終止符を打った。
村山は、会社で主任になたっ途端に忙しくなったとぼやき、
野田は、千葉の会社に就職した。
僕は、編集プロダクションに勤めはじめ、
森川は、奈良で中学校の教師になった。
最後の夜。ほとんど整理のついた部屋の窓を明けて、
四人で月を眺めながら、ゴールド・ブレンドを飲んでいた。
♪ダバダァ〜違いのわかる男・・・というCMがありましたね。
そんな台詞がまったく似合わない野田が、
「なあ、60になったら、みんなで集まって麻雀せんか?」と言った。
森川がすかさず「あい、いいですね」と応えた。
僕は軽く「うん」といい、村山は黙って月を眺めていた。
そうして、僕らはそれぞれの道を歩き始めた。
特別な話ではない。よくある話かもしれない。
たぶん、あのときが、
僕らの人生の中でカチャリと歯車が回った時だったんだろう、
今になって、そう思える。
そして、僕ら三人が再会するのは、30年後の奈良である。
膵臓ガンで死んだ森川の一周忌だった。
初めて会う森川の奥さんから、
「みなさんのことは何度も聞いています」と言われた。
案内されて彼の部屋に入り、
若い頃の面影を残した森川の遺影を眺めながら、
村山が「森川ぁ、なんかぁ、おまえ、はよ〜死んでから」と言い、
僕と野田は言葉を失っていた。
20代前半の男同士ではたとえ一年であっても、
学年の違いは絶対的なものだ。
だから、みんなから弟のように扱われていた。
それが森川の立ち位置だった。
そのせいでもないだろうが、
森川は面子が足りない時に駆り出されることが多かった。
それは絶対に断ることはなかったように思う。
じゃ、そのとき以外は、何をしていたかというと、
今になってみると、よくそんなことが出来たと思うけれど、
レコードを鳴らしながら、たいていは本を読んでいた。
六月頃だったか、彼が教育実習に行くことになった。
神奈川のある県立工業高校である。
そのときの詳しい話は知らない。
でも、いくぶんかは僕らにも責任があると思うのだけれど、
彼は2週目の月曜日に大遅刻をやらかしたのである。
いやね、日曜日の夕方から始まった勝負が
月曜日の未明まで続いたのです。
すでに勤め人だった一番上の村山は寝たら起きられないと、
始発の電車に乗ったと記憶している。
森川はどうしたか。もちろん寝たのである。
起きたのは午後3時の、すでに陽射しが窓から斜めに差し込む時刻。
実習校に電話を入れたら、
遅くなってもいいから顔を出せと言うことで、
すごすごと駅に向かっていく。
残った僕と野田は、にやにやしながら眺めていた。
たぶん、僕らが求めていたのは時間と自由だったのだ。
それらは、ある程度お金で買えるものだが、
そういう姿勢はたぶん経済の問題とは別の次元のことだ。
もうひとつ、エピソードがある。
森川には付き合っていた女の子がいた。
ミッション系の女子大学に通う女の子だった。
たぶん、実習で遅刻した年の年末のことだ。
彼女から、大学主催の「メサイア」のコンサートに誘われたんですね。
それが土曜日の夜。
僕らは金曜日からほとんど徹夜で。
森川は合唱が会場を満たす中、高々と鼾をかいてしまった。
彼女とはクリスマス、つまりその夜以降、
二度と逢うことはなかったようだ。
それでも、森川はそのことについては、一言も言わず、
今まで通りに家の管理をし、麻雀の面子が足りない時には、
断ることなく付き合っていた。僕らは、
彼が口に出さないことで痛みに耐えていると感じていた。
痛々しいほど僕らも若かったよね。
でも、なにも言わなかった。
その半年後、僕らの生活は終止符を打った。
村山は、会社で主任になたっ途端に忙しくなったとぼやき、
野田は、千葉の会社に就職した。
僕は、編集プロダクションに勤めはじめ、
森川は、奈良で中学校の教師になった。
最後の夜。ほとんど整理のついた部屋の窓を明けて、
四人で月を眺めながら、ゴールド・ブレンドを飲んでいた。
♪ダバダァ〜違いのわかる男・・・というCMがありましたね。
そんな台詞がまったく似合わない野田が、
「なあ、60になったら、みんなで集まって麻雀せんか?」と言った。
森川がすかさず「あい、いいですね」と応えた。
僕は軽く「うん」といい、村山は黙って月を眺めていた。
そうして、僕らはそれぞれの道を歩き始めた。
特別な話ではない。よくある話かもしれない。
たぶん、あのときが、
僕らの人生の中でカチャリと歯車が回った時だったんだろう、
今になって、そう思える。
そして、僕ら三人が再会するのは、30年後の奈良である。
膵臓ガンで死んだ森川の一周忌だった。
初めて会う森川の奥さんから、
「みなさんのことは何度も聞いています」と言われた。
案内されて彼の部屋に入り、
若い頃の面影を残した森川の遺影を眺めながら、
村山が「森川ぁ、なんかぁ、おまえ、はよ〜死んでから」と言い、
僕と野田は言葉を失っていた。
どのような国の歴史にも、
あるいはどのような人の歴史にも、
いくつかの分水嶺があると村上春樹は言っている。
たとえば、アメリカにとっての『1929年』
ユリウス・カエサルにとっての『ルビコン河』
アドルフ・ヒットラーにとっての『スターリングラード』
バイロン卿にとっての『チャイルド・ハロルドの巡礼』
ビートルズにとっての『サージャント・ペパー』
しかし、残念なことだが、それがいつかはわからない。
多くの場合、それを感知することはできないのだ。
その真の意味は、まるで長期手形の決済のように、
後日、静かにやってくる。
しかるべき歳月を隔てて、改めて知ることになるのだ。
大学時代の終わり頃、
府中競馬場近くの一軒家を借りていた。
僕はそのころは、適当にアルバイトをして、
かといって将来のことで漠然と不安を感じることもなく、
なんとかなるだろうというお気楽な生活に浸っていた。
年齢を重ねるにつれて、
時間はどんどん過ぎ去る速度を上げていくものだ。
だから、あの頃、時間は止まっていたような気がする。
家賃は友達四人で出し合っていた。
金曜日の夕方から人が集まり、未明まで麻雀大会。
アルコールはほとんどなかったが、
部屋がかすむほどにタバコの煙が充満していた。
明けて、土曜日の午前中の光の中を、
みんなで汚れたスニーカーやつっかけを履いて、
総菜パンと牛乳を片手に府中競馬場に行った。
パドックを見て、馬券を買って、一日過ごす。
そして、帰ってから、
再び牌を振る・・・信じられないような生活でしたね。
そこでは、人が人を呼び、
ずいぶんと大勢の人間が集まってきた。
その中には、後に服役した人間もいたし、
現在、日本を代表する企業の重役になった人間もいる。
多彩な人間が集まってきたけれど、
女の子は入れないことが不文律だった。
ごく自然に、そういうものだと誰もが感じていた節がある。
みんなほとんどバカで、いい加減で、
どうしようもなかったけれど、
人のあら探しみたいなことはしなかったように思う。
家賃を出し合っていた四人の中のひとりが森川だった。
To be continued
あるいはどのような人の歴史にも、
いくつかの分水嶺があると村上春樹は言っている。
たとえば、アメリカにとっての『1929年』
ユリウス・カエサルにとっての『ルビコン河』
アドルフ・ヒットラーにとっての『スターリングラード』
バイロン卿にとっての『チャイルド・ハロルドの巡礼』
ビートルズにとっての『サージャント・ペパー』
しかし、残念なことだが、それがいつかはわからない。
多くの場合、それを感知することはできないのだ。
その真の意味は、まるで長期手形の決済のように、
後日、静かにやってくる。
しかるべき歳月を隔てて、改めて知ることになるのだ。
大学時代の終わり頃、
府中競馬場近くの一軒家を借りていた。
僕はそのころは、適当にアルバイトをして、
かといって将来のことで漠然と不安を感じることもなく、
なんとかなるだろうというお気楽な生活に浸っていた。
年齢を重ねるにつれて、
時間はどんどん過ぎ去る速度を上げていくものだ。
だから、あの頃、時間は止まっていたような気がする。
家賃は友達四人で出し合っていた。
金曜日の夕方から人が集まり、未明まで麻雀大会。
アルコールはほとんどなかったが、
部屋がかすむほどにタバコの煙が充満していた。
明けて、土曜日の午前中の光の中を、
みんなで汚れたスニーカーやつっかけを履いて、
総菜パンと牛乳を片手に府中競馬場に行った。
パドックを見て、馬券を買って、一日過ごす。
そして、帰ってから、
再び牌を振る・・・信じられないような生活でしたね。
そこでは、人が人を呼び、
ずいぶんと大勢の人間が集まってきた。
その中には、後に服役した人間もいたし、
現在、日本を代表する企業の重役になった人間もいる。
多彩な人間が集まってきたけれど、
女の子は入れないことが不文律だった。
ごく自然に、そういうものだと誰もが感じていた節がある。
みんなほとんどバカで、いい加減で、
どうしようもなかったけれど、
人のあら探しみたいなことはしなかったように思う。
家賃を出し合っていた四人の中のひとりが森川だった。
To be continued
さっきテレビで、速報テロップが出た。
やっとというか、ついにというか、
カズオ・イシグロがノーベル賞を受賞した。
彼の“Never Let Me Go”はすばらしい小説だった。
映画はつまんなかったなぁ
はじめて読んだ時、胸に迫って泣きそうになった。
映画もよかったのは、
“The Remains of the Day”でしたね。
すばらしい小説というのは、
まず第一にストラクチャーが優れているものだ。
もちろん、コンテンツが優れているのは
いうまでもないですが・・・。
あとは、ミラン・クンデラですね。
やっとというか、ついにというか、
カズオ・イシグロがノーベル賞を受賞した。
彼の“Never Let Me Go”はすばらしい小説だった。
映画はつまんなかったなぁ
はじめて読んだ時、胸に迫って泣きそうになった。
映画もよかったのは、
“The Remains of the Day”でしたね。
すばらしい小説というのは、
まず第一にストラクチャーが優れているものだ。
もちろん、コンテンツが優れているのは
いうまでもないですが・・・。
あとは、ミラン・クンデラですね。