ニュース・日記

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風通信192

2020/06/30(Tue)
風通信 |
6月が終わろうとしている。考えるまでもなく、今年の半分が終わることになる。とんでもない半年だった。2月くらいから怪しい雰囲気が始まって、5月がピーク。そのせいで仕事は、今のところ、今月から8月までは、年度初めの4月から5月までの補充期間と設定されているんだよね。村の鍛冶屋のように働いている僕の職種は、年齢に関係なく、つまり僕のように還暦をとうに過ぎた人間も徹夜してもとりあえず大丈夫な20代の人間も同じ仕事量だろ? 僕にもそれなりに言い分もあるんだけど、まあ、仕事だし、野の果てを見ることなく草刈りしています。

これを書いている今、新国立美術館のTシャツを着ている。なかなか派手目のプリントで身内ではあまり評判がよくありません。上京したときは必ずあの美術館に立ち寄ることは知ってるよね。地下鉄の乃木坂駅から歩いて西入口から入場して、まずは空いている椅子に腰掛ける。あそこの1Fの企画展示室の前の空間は大好きでさ。たぶん「孤独」というのは本当は、ざわざわした街の群衆のただ中でした味わえない感情なんじゃなかなぁ・・・。あの場所で僕はいつもそう感じる。そうでありながら緩やかな親密感があるというか、不思議な空間だ。話したと思うけれど、1年に1回は行きたいと思っていた。六本木のサントリーホールの近くに宿を取って、夜はコンサート。そして天気がよければ、バスに乗って近くまで行き、後はブラブラ歩きながらビルの間からときどき見える美術館を目指して歩くのは至福の時間だ。渋谷のシアター・コクーンや世田谷のトラムもよく行くけど、僕にとって新国立へのアプローチは特別な時間のような気がする。だけど今年は東京に行けそうにもないなぁ。コロナ禍の今年いっぱいの改善は無理だと思うし、もちろん新作の芝居があるからね。とりあえず、僕のエネルギーはそちらに傾くだろう。

トップページに告知したので、日程はわかったよね。

ひとり芝居だから、小屋をどこにするかはずいぶん考えたよ。まずはキャパの問題。それにお客さんのアクセス、時期、最大の懸案である予算・・・。制作の矢野や川添の貴重な意見ももらった。とりあえず、小屋と照明、音響はスケジュール押さえたところで、コロナ禍。県の施設だから入場者の制限がまことしやかに語られている。10月のガイドラインはまだ発表されていないけど、噂だけは宿命のように一人歩きしている。そうなるとワンステ、たとえば50人になるかもしれないんだ。そうすると2日間の公演で、しかも平日で100人・・・。長崎にいるSさんや、熊本にいるMさんにも見てもらいたいけど、わざわざ交通費をかけて見に来てもらって、え? これがアントン? といわれてもなぁ〜。(あ、君は知らないと思うけど、SさんとMさんは、僕の好きなベテランの女優さんです、念のため)まぁ、久しぶりにアントンの芝居を楽しみにしている人は、それなりにいそうな気もするんだけど、こればかりはね。選挙の当確情報とは違うから、当日まで分からない。制作の二人に苦労かけるんじゃないかと思っている。今日は、仕事帰りに制作スタッフと打合せ。顔が青ざめるほどの、悲鳴が聞こえてきそうな情況なるも、でも、うまくいくかどうか分からないけれど、僕らはルビコン河は渡ってしまったと思っています。リチャード3世のように不敵に笑っていよう。
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風通信191

2020/06/16(Tue)
風通信 |
今日は劇判のことについてちょこっと情報を。

ひとり芝居の3本立ての内、真ん中の午後のシーンは、中年男性が主人公なんだ。キャラクターの造型を考えていたある日のことです。ショスタコービッチの『ジャズ組曲』が頭に浮かんだ。いや、名曲です。アレ使えないかなぁと思って、別府に劇判として使いたいんだけど、というと、2、3日して、台詞の中に「ジャズ組曲」という言葉が入った新しい台本を届けてきた。少し無理はあるかもデス。でも、それは演出でカバーできると踏んだ。

次に、生劇判だから、どうしようかと・・・。フルフルズに任せるのは荷が重かろうと・・・。シンプルにいかねば・・・、大人の音色・・・、などなど考える内に、ひらめいた。君に言わせると単なる思い付きです。えへ。いつもそうだよね。演出も生き方も、あまり考えない。ひらめきはすぐ実行が原則だから、ある楽器のソロプレーヤーのところに足を運んだのさ。顔だけは知っていて、話したこともない人です。自己紹介から始まって、約1時間・・・2時間だったかな、口説いた。僕は女性を口説いて、はかばかしい成果を上げられなかった数多くの経験譚の持ち主なんだけど、わりと男性は落とせる自信がある。ここでね、落とすと僕が言うのは、実は、ノーギャラでの出演を依頼したということです。いや、申し訳ないことです、ほんとに。我ながら信じられんし、そもそもホントはしてはいけないことなんです。いつもそう思う。芝居やっている人なら、上演の経済はよく分かっているからハードルは低いんだけど、同じステージ・パフォーミングでも違うジャンルの人だとかなりのハードルなんだよね。だって、彼の場合リサイタルまでやって、CDまで出している音楽家ですから・・・。ああ、もちろん、若干の謝礼は用意するよ、もちろん。でも、ギャラというにはあまりにも情けないもので。僕の話? いや、面白いことやりません? という感じでした。アントンのはじめころはだいたいそうやって役者さんと話して、口説いていたことを思い出した。
暗転から彼の演奏が静かに始まる。曲はもちろん、『ジャズ組曲』の第1番。メロディが聞こえてこないか? 主人公の、仕事をそれなりのそつなくこなしながらも、どこかやるせない思いを抱いている感じがなかなか合います。

もちろん、朝のシーンは女の子にひとり芝居です。これにも劇判は付けようと思っている。これは、『Your Song』ご存じ、ロケットマンの曲ね。詩がさぁ・・・なんとも煮え切らなくて。そこがまたよくて。この女の子のメンタリティも微妙で。ひとり芝居だからソロの劇判。ここは定番のアコースティック・ギターです。この曲のアコギ版は楽譜もわりと出版されているらしい。まあ、これは一応「フルフルズ」のギター担当に頼んだ。半年かけて練習せーや、ってさ。クラシックギターもしているそうだから、いい感じが出せると思うんだ。ガット弦よりもスティール弦の方がいいかなと思うけれど、プレーヤーがどう思うかです。

君は元気にしてますか? 
便りがないことが元気な証拠だとは思っている。
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風通信190

2020/06/10(Wed)
風通信 |
189便で書いた文章は依頼されて書いたものだったんだけど、残念ながら掲載されなくなった。内容が担当者のお気に召さなかったらしい。まあ、そういうこともあるよね。ちゃんと読んでくれたかどうかも分からない。理解はしただろうけど分かってはくれなかったというところかな。君は読んでくれましたか。たぶん、君のことだから、ある部分は分かってくれるんじゃないかと思うけどさ。対象だった高校3年生には読んでもらいたかったのでちょっと残念ながらでした。

今日は、今度の新作のことについて書きます。

2017年だったか、NTライブでゴルドーニの作品をブライトンに置き換えた『One Man, Two Guvnors』を観た話はした? すごくシンプルな笑劇で、始まって10分から終わりまで笑っていたんだよ。しまいには笑い疲れというのか、顎が疲れちゃって困ったくらいだった。主演のジェームズ・コーデンの間合いの巧さというか、オーディエンスとの距離の取り方とか、実に周到に計算されていて、あ、もちろん役者は全員イギリス俳優だから、みんな巧いんだけどね。ビデオがあれば何度でも観たいくらいなんだ。僕は、『リア王』を終えていたから、ほら、あの芝居は登場人物のほとんどが死んでしまうという恐ろしい芝居だから、その反作用かなんかで、カラッと笑える芝居が欲しくてツボにはまったのかもしれないと思う。

次に芝居を創るとしたら、こんな感じの芝居がいいなあと思ったんだよ。それで、いろいろ探してテレンス・ラティガンの喜劇と決めた。いつものように翻案して台本まで出来上がった。思いっきり仕込みを入れた芝居でした。ところがさ、役者が揃わず、流れてしまった。登場人物は15人です。はは。それも年齢層が多岐にわたる。頑張ってはみたんだが、どうにもならなくてね。こういうとき、俺も年をとったんだなぁとちょっと寂しくなったりしてさ。

前にも言ったと思うけれど、若い友人の別府があるとき、こんなのを書きました、と原稿を送ってきた。それがえらく面白くて。いや、喜劇じゃないよ。現代風ではあるけれど、ははぁ、今どきの男女関係ってこんなんかもしれないなぁと思ったわけ。これは演出してみたいと思った。それで、さっそく別府に連絡してみると、OKと言うことで、決まりです。まあ、作家としては上演したという人がいれば反対はしないでしょう、よほどのことがないかぎり。女の子のひとり芝居で、時間は「朝のひととき」。ついでなら、「昼のひととき」と「夜のひととき」も欲しくなった。別府に話したら、それいいですね、となって、それぞれ違う人物のひとり芝居の3本立てと決定。ただし・・・、とこれ以上は言えません。

僕の頭の中には、『One Man, Two Guvnors』が残っていて、あの芝居では幕間にスッキフル風の楽器を取り入れた60年代を彷彿とさせるバンドが登場するんだ。初期のブリティッシュ・ロックのようでした。冒頭から登場するので、れれ? これは芝居? と思ったくらいだったよ。これがいたく気に入っちゃてさ。これ、面白いかもと思った。そこで、旧知の椎葉裕に連絡を取ってみた。椎葉さんのことは話したことあったっけ? もう、かれこれ30年の付き合いになるけど、昔からアマチュアバンドをやっているのね。もう、彼しかいない、と思い込んでしまった。アマチュアの香りがプンプンするんだ、いろんな意味で。僕はお客さんが楽しくなるような音が欲しかった。だから、あまりガッツリと音を追求するようなバンドは欲しくなかったんだ。「フルフルズ」(これがバンド名です)はそれにぴったりのバンドなんだよ、いやほんとに。だって、いつも演奏は「フルフルズ」→「いっぱいいっぱい」なバンドですから。

演奏する曲目は大橋のココスで椎葉さんと相談して決めた。それについてはまたの機会に。そうそう、個々の作品のタイトルはあるんだけど、総合的な全体のタイトルをつけたくなって、いろいろ考えた。決定したのを別府に言ったら、一発OK。

Will You Still Love Me Tomorrow

これが総合なタイトルです。フフ。
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風通信189

2020/06/06(Sat)
風通信 |
高校3年生に対して文章を求められた。元の文は長いので
ちょっとはしょって、その一部を載せます。
最後のパラグラフは、部分的に村上春樹の文章を基にしています。
芝居とは関係なしよ(苦笑)


自分では想像すら出来ないことがこの世には起こる。

 20110311。車を走らせていた僕はカーラジオでアナウンサーの押し迫った声を聴いていた。自宅に戻って、いちおう確認しようというくらいの気持ちでTVのスイッチを押したんだ。画面はおそらくヘリコプターからの映像なのだろうが、何を映しているのかよく分からなかった。土色のキャンパス布を何かが一瞬の淀みもなくまるで黒い液体が染み込むようにどす黒い色に変えていく。アナウンサーの「これは水です。迫っています。」と繰り返される言葉。そして、その日の夜、次々に放映される水に浮かべた模型のように家々を飲み込んでいく津波の渦を見ながら僕は言葉を失った。そして多くの命が失われた。

 202005××。人類が滅亡した後、景観だけが残されたような都市。リドリー・スコットがメガホンを取った近未来の映画のようだった。人が一人として歩いていない渋谷のスクランブル交差点やネオサインが誰に見られるともなく点滅するタイムズ・スクエア。パリの18区、モンマルトルの丘の階段に溢れていた喧噪が聞こえない。まるでジョルジュ・デ・キリコの絵画だ。けれどそのすべてが幻想ではなく、Phenomenon of truthだった。この二つの現実。自分の生涯でこんな情景を五感で知ることがあるとは思ってもみなかった。自分では想像すら出来ないことがこの世には起こるんだと思った。そして、言うまでなくグローバル化した世界中で信じられない数の命が失われた。

 長く生きていると、さまざまな死に出会う。僕もこころざし半ばで倒れたいくたりかの友人がいる。残された僕はちゃんと生きているだろうかと自問することがある。すると自分の人生について改めて気づいてしまうんだ。僕の人生はけっこういい加減です。でたらめなこともしているし、嘘もつくし、約束も破る。パンを食べれば必ずパンくずを落とすし、CDプレーヤーのスイッチは間違いなく消し忘れる。君たちの名前もなかなか覚えられない。身勝手だし、自己弁護はするし、我知らずいろんな人を傷つけても来た。嫌になる。それでもときどき、思うことがあるのだ。亡くなった人の分も生きていかなくてはならないと。日常生活の中で「いやだなぁ、こんなこと」とか、「やってられねぇよ、うんざりする」とか思いそうになると、思い半ばで死んじゃった人のことを思う。そして「がんばらなくちゃ」と自分に言い聞かせる。

 この3ヶ月、君たちは何を考えたんだろう。

 君たちは年が明けると、高校を卒業することになるよね。大学に行く人もいるし、専門学校の扉を開く人もいる。社会人として踏み出すことを選択する人もいるだろう。でも、どの道を歩くにしても君たちの人生には何の保障もないという事実は見つめなければならない。何が起こるか分からないのがこの世の中だからだ。今度の伝染病は、そのことを僕らに教えてくれた。では、どうすればいいのか? 答えはたぶん一つしかない。いま目の前にあることに誠実に向き合うことだろう。アルベール・カミュは『ペスト』という小説の中で情況に誠実に向き合う人間を描き切っている。君たちは誠実に向き合えただろうか。だからね、そういう意味で今回のコロナ・ウイルスによる空白の時間は大事だった。おそらくYouTubeとか見まくっただろうね。そのことが頭ごなしに悪いこととは言わないけどさ。しかし、今回の休校は「考える」よい機会だったんだ。何も考えなかった人は、今からでも遅くはない。人は「それでは遅い」とか「まだ早い」とかいろいろに言うけれど、時間は単線で動くものじゃないのだから、いつだって、遅いということはないんだ。思ったときがすべてのはじまりなんだよ。

 なぜ大学進学を思ったのか。今、その答えを見つける時間は残念ながら君たちに残されてはいない。大学に進学するためには何をしなければならないかが分からない人はいないはずだ。仮に分からない人がいたとすれば、その人は大学進学を止めた方がいい。大学に進学するだけが人生じゃないし。それに大学に行けばそれなりの就職が出来るだろうというのは単なる蓋然性に過ぎないんだし。その一方で運動が苦手な人がいるように、勉強が苦手な人もいるはずだ。もう勉強はしたくないから大学へは行かない、という選択をする人もいるだろう。そんな明確な意思があればそれはそれで素敵なことなんだろうと思う。

 結局のところ、君たちはどのように生きていくのだろうかが、いま問われている。

 生きていくのに大事なことは、現実の観察と内面への想像力だ。その二つのどちらかがない人間は政治家をはじめとして実はたくさんいる。ネットで他者に対して誹謗中傷する輩も多い。彼らはなぜそうであり続けるのか。答えはシンプルです。現実の観察と内面への想像力、その二つを手に入れるのは容易なことじゃないからだ。でも出来ないことはない。手に入れるために必要なのは「知性」に尽きると思う。では、その「知性」を身につけるのはどうすればいいか。それは君たちのような年齢の時に、しっかりと誠実に学び、考えることしかない。君たちはどう生きていくのか。人間の得意技のひとつに、自分を騙すということがあるし、人は時としてその陥穽に嵌まりやすい。しかし、だからこそ、もう一度、少しでもいいからどう生きるのかという問いに向き合ってもいいかもしれないと思うのです。

 ところで、新型コロナ感染が拡大するアメリカで、映画俳優のトム・ハンクスがオハイオ州の大学で語った卒業スピーチは感動的だったよ。「君たちの人生についてこう語ることになるだろう。コロナ以前はこうだった。巨大なパンデミック以前は、とね。他の世代で語られるように、君たちの人生は永遠にコロナ以前として定義されることになるだろう。・・・我々はウイルスを克服した“その後”を生き続けることになる。大きな犠牲を強いられる事態を君たちは生き抜くことになる。そして、平常化を再始動させる役割を果たす」

 君たちの中には、ユーラシア大陸の東の隅で、四つの巨大なプレートの上に乗っかるような、ヤバイかっこうで位置しているこの土地に営々と流れ続けてきた人間たちの魂の欠片がある。日本人に生まれたということを言いたいわけじゃないよ。先年帰天されたドナルド・キーンという国文学者は20代までアメリカで生きてきて、その後この土地に移住し、ひとりの人間としてこの土地の魂を持って生き抜いた。つまりこの土地で生きるということを言っているんだ。先に述べたように僕らは「無常」という移ろいゆく儚い世界に生きている。生まれた生命はただ移ろい、やがて例外なく滅びていく。大きな自然の力の前では人はほんとに無力な存在だけど、そのような儚さの認識は、僕らの基本的イデアのひとつにもなっている。しかしそれと同時に、滅びたものに対する敬意と、そのような危機に満ちた脆い世界にありながら、それでもなお生き生きと生き続けることへの静かな決意、そういった前向きの精神性も僕らには具わっているはずだ。僕らは新しい現実を確かに見つめる力と豊かな内面への想像力とを新しい言葉で連結させなくてはならない。そして生き生きとした新しい物語を、そこに芽生えさせ、立ち上げてなくてはならない。それが畑の種蒔き歌のように、自分や人々を励ますことになる。僕らはかつて、まさにそのようにして、この国を再建してきた。その原点に、僕らは再び立ち戻らなくてはならないだろうな。君たちこそがそれを担う人なんだろう。トム・ハンクスが言ったように「大きな犠牲を強いられる事態を君たちは生き抜くことになる」にしても。

 さて、君たちはどう生きるかな。

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