
ニュース・日記
先日、シンフォニーホールで西日本オペラ協会コンセル・ピエール主催の『こうもり』(J・シュトラウス二世)を観てきたよ。オペレッタです。君も知っているように、もともと音楽劇に関してはミュージカルも含めて完全に素人なんだけど、まあ、オペラと大差なかろうと踏んでいた。オペレッタは、遥かむかしね、福岡市民会館であった市民芸術祭記念式典で観ただけだったけど、けっこう笑えたんだ。あれは『メリー・ウイドゥ』だったかしら。その時の記憶もかすかにあるし、そんなに構えることないなと思いつつ座席に付いたわけだ。ところがだよ、想定したものと大きく違っていました。
まず、歌曲も含めてすべて日本語版であること。それはあり得ることかもしれないけれど、なにしろね、その日本語がなんとも古い。まるで、神西清か、福田恒存の翻訳劇を観ている感じとでも言うかなぁ。中山晋平ばりの、「ラララ」とか。素人だから見当違いもあるとしても、あれどうなんだろう。しかしこうは言っても難しいよね。だって、曲があり、それに合わせて歌詞(と言っていいのかしら)があるわけでしょ。そりゃ、制約を受けますわ。しかも、元ネタもあるはずだし。新しく言葉を創る難しさはわからないわけじゃない。
たぶん芸術作品というのは時代の桎梏から免れない。だとしても、その本質は普遍性を持っているからこそ、僕らはシェイクスピアも近松も観られるわけで、そこにアクチュアルなリアリティを観るんだよね。シェイクスピアは時代によって何度も訳し直されているのはご存じの通り。近松だってそれは同じ。アクチュアリティでいえば、たとえば『リア王』にしたって、老人介護問題と読み替えることだって出来るよね。だからこそ使用される言葉は、昭和前期のようなものではまずいんじゃないかと思うんだ。確かに、新しい酒を古い革袋に入れるなという言葉もあるから、伝統的なオペレッタの上演としてはこれでいいのかもしれないけれどさ。先述したように音楽劇なのだから、言葉にそれほど重きが置かれているのではないかもしれない。内容もある意味スラップスティックだしね。舞台美術(大道具も含めて)や、照明は、僕の専門だから演劇との違いを色々感じたし、いろんな思いもあるんだけれど、それらは芸術領域の相違がありそうなので、多くは語らない。
吉田拓郎が『イメージの詩』で、次のような歌詞を残している。/古い船には新しい水夫が乗り込んでいくだろう/古い船をいま動かせるのは古い水夫じゃないだろう/なぜなら古い船も新しい船のように新しい海へ出る/古い水夫は知っているのさ/新しい海の怖さを
僕が感じたことは、この歌詞のようなことなんだ。少なくとも僕より若い人たちがステージには立ち、幾分ぎこちなく演技しているわけだが、言葉を支えている人間の文化をどれほど感じているのかなぁと思っていました。いま思い出したんだけど、藤原定家は「詞は古きを慕ひ、心は新しきを求め」ると書いたけれど、それは和歌という純粋な言語芸術のことですね。
それでもね、福岡の地でこの作品が観られるのは素晴らしいことだと思う。歌い手もあれだけの会場で歌い、それを僕らが全身で受け止められる機会は貴重な経験なのだった。それだけに、僕としては、こと言葉に関して悔やまれる。それにしても、オーケストラの演奏を生で聴けるのはいいなぁ。今回は九州交響楽団。実はね、昨年は演奏会にはどこにも行けなかったんだ。それというのも、23年にベルリン・フィルハーモニーを聴いたせいだと思う。あの音の厚みは、経験しなきゃわからないかもしれない、というのは老人の決まり文句で、不公平な言い回しだけれど、聴きこんでいたブラームスの4番シンフォニーってこんな曲だったの? と思わず自問自答したくらいだった。音の圧というか、うまく言えないけれど、しばらくはオーケストラはいいや、と思っていたんだと思う。けれどもやはりいいものです。
福岡の街は、今大きく変貌しつつある。商業演劇もいいけれど、このような舞台芸術がこれから広がっていくことを期待したいと思うよ。僕はたぶん間に合わないだろうけどさ。あ、芝居のこと・・・。また、お便りします。
まず、歌曲も含めてすべて日本語版であること。それはあり得ることかもしれないけれど、なにしろね、その日本語がなんとも古い。まるで、神西清か、福田恒存の翻訳劇を観ている感じとでも言うかなぁ。中山晋平ばりの、「ラララ」とか。素人だから見当違いもあるとしても、あれどうなんだろう。しかしこうは言っても難しいよね。だって、曲があり、それに合わせて歌詞(と言っていいのかしら)があるわけでしょ。そりゃ、制約を受けますわ。しかも、元ネタもあるはずだし。新しく言葉を創る難しさはわからないわけじゃない。
たぶん芸術作品というのは時代の桎梏から免れない。だとしても、その本質は普遍性を持っているからこそ、僕らはシェイクスピアも近松も観られるわけで、そこにアクチュアルなリアリティを観るんだよね。シェイクスピアは時代によって何度も訳し直されているのはご存じの通り。近松だってそれは同じ。アクチュアリティでいえば、たとえば『リア王』にしたって、老人介護問題と読み替えることだって出来るよね。だからこそ使用される言葉は、昭和前期のようなものではまずいんじゃないかと思うんだ。確かに、新しい酒を古い革袋に入れるなという言葉もあるから、伝統的なオペレッタの上演としてはこれでいいのかもしれないけれどさ。先述したように音楽劇なのだから、言葉にそれほど重きが置かれているのではないかもしれない。内容もある意味スラップスティックだしね。舞台美術(大道具も含めて)や、照明は、僕の専門だから演劇との違いを色々感じたし、いろんな思いもあるんだけれど、それらは芸術領域の相違がありそうなので、多くは語らない。
吉田拓郎が『イメージの詩』で、次のような歌詞を残している。/古い船には新しい水夫が乗り込んでいくだろう/古い船をいま動かせるのは古い水夫じゃないだろう/なぜなら古い船も新しい船のように新しい海へ出る/古い水夫は知っているのさ/新しい海の怖さを
僕が感じたことは、この歌詞のようなことなんだ。少なくとも僕より若い人たちがステージには立ち、幾分ぎこちなく演技しているわけだが、言葉を支えている人間の文化をどれほど感じているのかなぁと思っていました。いま思い出したんだけど、藤原定家は「詞は古きを慕ひ、心は新しきを求め」ると書いたけれど、それは和歌という純粋な言語芸術のことですね。
それでもね、福岡の地でこの作品が観られるのは素晴らしいことだと思う。歌い手もあれだけの会場で歌い、それを僕らが全身で受け止められる機会は貴重な経験なのだった。それだけに、僕としては、こと言葉に関して悔やまれる。それにしても、オーケストラの演奏を生で聴けるのはいいなぁ。今回は九州交響楽団。実はね、昨年は演奏会にはどこにも行けなかったんだ。それというのも、23年にベルリン・フィルハーモニーを聴いたせいだと思う。あの音の厚みは、経験しなきゃわからないかもしれない、というのは老人の決まり文句で、不公平な言い回しだけれど、聴きこんでいたブラームスの4番シンフォニーってこんな曲だったの? と思わず自問自答したくらいだった。音の圧というか、うまく言えないけれど、しばらくはオーケストラはいいや、と思っていたんだと思う。けれどもやはりいいものです。
福岡の街は、今大きく変貌しつつある。商業演劇もいいけれど、このような舞台芸術がこれから広がっていくことを期待したいと思うよ。僕はたぶん間に合わないだろうけどさ。あ、芝居のこと・・・。また、お便りします。