
ニュース・日記
過日、若い友人たちと食事をした。彼らが10代の頃からの付き合いだから、もう40年近い付き合いになる。歳月は思いがけず早く流れるね。秀吉じゃないけれど、「夢のまた夢」です。古来、時の流れは川の流れにたとえられることが多い。たとえば孔子に「子、在川上曰、逝者如斯夫、不舎晝夜」(=移りゆくものはこの川の流れようである。昼も夜もとどまることがない)とあり、これは時間への言及でしょう。もっとも、川の流れを見るためには川の外側にいなければならない。つまり、時間軸の上に載らない。というか、ちょっとずれたところにいる。だからこれは、老人ゆえの視点かもしれないな。年齢が若ければ川の流れの上流を見る。年齢を重ねるとどうしても下流を見てしまうものだ。僕などはうっすらと霧の向こうに河口が見えるくらいになった。
いや、今日は、こういうことが言いたいのじゃなかった。初等教育現場の管理職にある彼らの中のひとりから聞いた話のことです。最近の保護者のクレームはAIで作られているという話があって、それに対して教職員の方もこういうクレームにはこういう反論でって、AI検索するそうな。酒の席でよくあるツマミ程度のジョークだろうけど、なにやら妙に現実感がある話だった。僕自身は友人から無料で仕えるAIについて教えてもらった記憶があるけれど、すっかり忘れているけどね。それにしても、AI真っ盛りです。なんでもかんでもAI、AI。聞くところによれば芸術作品まで創れると豪語している人もいるそうだ。年寄りの素朴な疑問だけど、そんなことが可能なんだろうか。
クリント・イーストウッドの作品に、君も知っている『許されざる者』という作品があるよね。あれを見たとき、僕はいったい誰が「許されざる者」であるのか判断がつかなかった。まあ、もちろん、監督自身が演じた主人公もそうなんだろうけど、ジーン・ハックマンの演じた保安官だって、そうかもしれない。保安官はタウンの秩序・安寧のために不法な銃器の持ち込みを禁じ、それに違反した者を徹底していたぶる。正義の中の悪というかねぇ。しかしさ、正義のためなら何でも許されるわけじゃない。正義の反対語は悪? いやいや、それも正義ということだってある。悪とはかぎらない。絶対的な価値を疑わなくちゃいけない。この映画はそれまでの西部劇の無法者と保安官の対決の構図から逸脱していると思うんだけど、こういう人間の切り取り方って、AIに出来るんだろうか。正しさなんて、相対的なものでね、そのあわいを表現するのが芸術だと思うのですよ、僕は。一人の人間の内なるものを総体的に表現する営為とでも言おうか。見えるものだけで物事は成立しないだろう。見えないものをいかに表現するかで作品の価値が決まるんじゃないかね。『許されざる者』は、そのあたりを巧妙に仕組んだ作品なんだろうと思う。AIはどこまでいくのかねぇ。
さて、今回の『ザ・初見!〜雨の、静かな週末〜』には、悪人は出てこないし、善良この上ない人も出てこない。もしかしたら昨日も、今日も、そして明日も君の隣にいるであろう、誰かです。いつもながらの中高年のオジサンたちのドラマなんだけど、表象としてのドラマはある。けれど、それを支えている構造は見えない。そのあたりをどんなふうに舞台上で見せられるかがポイントです。演出としてはできるかぎり頑張ってその時間を愉しみたいものです。作家の別府君が書いたものを、その意図も意図せざることも含めて、創っていきたいと考えている。
AIは作家が意図したことを完成されたものとして提示するのかな。でも、実は舞台では思いがけないことが起こるんだ。むかし、ある舞台で団員だった岩井がこう言ったことがある。「え? ここで客はなんで笑うの?」面白いでしょ? 要はさ、舞台は台本を仲立ちとして作品を提示する側と受容する側とで創られる共有空間だと思うんだ。それって、AIにはそもそも創れないと思うけれど、どうなんだろう。想像の領域までフォローするんだろうか。以上、AIの何たるかを知らない老人の繰り言ですが、できれば僕のエリアには入り込まないでもらいたいねぇ。
いよいよ、公演まであと20日に迫りました。昨日、あるイベントでチラシを500枚撒きました。一人くらいは見に来てくれるかもしれない。
いや、今日は、こういうことが言いたいのじゃなかった。初等教育現場の管理職にある彼らの中のひとりから聞いた話のことです。最近の保護者のクレームはAIで作られているという話があって、それに対して教職員の方もこういうクレームにはこういう反論でって、AI検索するそうな。酒の席でよくあるツマミ程度のジョークだろうけど、なにやら妙に現実感がある話だった。僕自身は友人から無料で仕えるAIについて教えてもらった記憶があるけれど、すっかり忘れているけどね。それにしても、AI真っ盛りです。なんでもかんでもAI、AI。聞くところによれば芸術作品まで創れると豪語している人もいるそうだ。年寄りの素朴な疑問だけど、そんなことが可能なんだろうか。
クリント・イーストウッドの作品に、君も知っている『許されざる者』という作品があるよね。あれを見たとき、僕はいったい誰が「許されざる者」であるのか判断がつかなかった。まあ、もちろん、監督自身が演じた主人公もそうなんだろうけど、ジーン・ハックマンの演じた保安官だって、そうかもしれない。保安官はタウンの秩序・安寧のために不法な銃器の持ち込みを禁じ、それに違反した者を徹底していたぶる。正義の中の悪というかねぇ。しかしさ、正義のためなら何でも許されるわけじゃない。正義の反対語は悪? いやいや、それも正義ということだってある。悪とはかぎらない。絶対的な価値を疑わなくちゃいけない。この映画はそれまでの西部劇の無法者と保安官の対決の構図から逸脱していると思うんだけど、こういう人間の切り取り方って、AIに出来るんだろうか。正しさなんて、相対的なものでね、そのあわいを表現するのが芸術だと思うのですよ、僕は。一人の人間の内なるものを総体的に表現する営為とでも言おうか。見えるものだけで物事は成立しないだろう。見えないものをいかに表現するかで作品の価値が決まるんじゃないかね。『許されざる者』は、そのあたりを巧妙に仕組んだ作品なんだろうと思う。AIはどこまでいくのかねぇ。
さて、今回の『ザ・初見!〜雨の、静かな週末〜』には、悪人は出てこないし、善良この上ない人も出てこない。もしかしたら昨日も、今日も、そして明日も君の隣にいるであろう、誰かです。いつもながらの中高年のオジサンたちのドラマなんだけど、表象としてのドラマはある。けれど、それを支えている構造は見えない。そのあたりをどんなふうに舞台上で見せられるかがポイントです。演出としてはできるかぎり頑張ってその時間を愉しみたいものです。作家の別府君が書いたものを、その意図も意図せざることも含めて、創っていきたいと考えている。
AIは作家が意図したことを完成されたものとして提示するのかな。でも、実は舞台では思いがけないことが起こるんだ。むかし、ある舞台で団員だった岩井がこう言ったことがある。「え? ここで客はなんで笑うの?」面白いでしょ? 要はさ、舞台は台本を仲立ちとして作品を提示する側と受容する側とで創られる共有空間だと思うんだ。それって、AIにはそもそも創れないと思うけれど、どうなんだろう。想像の領域までフォローするんだろうか。以上、AIの何たるかを知らない老人の繰り言ですが、できれば僕のエリアには入り込まないでもらいたいねぇ。
いよいよ、公演まであと20日に迫りました。昨日、あるイベントでチラシを500枚撒きました。一人くらいは見に来てくれるかもしれない。