ニュース・日記

ニュース・日記

風通信221

2025/04/05(Sat)
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<続きです>

今回の『ザ・初見!』は、
すでに書いたように、1回目からすれば、
かなりハードルが上げたプログラムだった。
読みをせずに、半立ちをするんだからなぁ。
とんでもないことです。
なんとか舞台が成立したのは、やはり役者の力が大きかった。
いや、ほんと頭が下がります。
いくつか仕掛けをしたのだが、
残念ながらすべて不発に終わった。う〜ん。
まあね、その責任は僕にある。

ひとつだけばらしておこうか。
当日のパンフレットに、
大将の紹介で、「八代亜紀のファン」というのを書き入れた。
なぜに? というのが仕掛けのとっかかりのはずだったのです。
たぶんそれに注目した人は役者の含めて皆無だったのだろう。
実は、台本に「間」という指示が書いてあって、
この「間」のときに流す予定でした、『舟歌』を。
ところが、「間」が取れなかったのだわ。
取れていれば、え? なんで? となり、
アドリブで台詞が入るかなと期待したのでした。
見事にこけました。
致し方ない。無理を承知で仕掛けたんだもの。

220便から続きですが、
まあ、ことほどさように音楽はいつでも僕の周りにはある。
考えてみれば、中学校時代にFEN(米軍極東放送網)で、
はじまり、FM放送が開始されるや、ステレオ放送に驚き、
音楽漬けの毎日だったからねぇ。
そういえば、先日、
友人の椎葉ユウのポッドキャスト(シイバゼミナール音楽の時間)を
聴いていたら、“チカフェルディ”というバンド(のひとり)がゲストで、
彼らの曲を2曲ほど流していた。
この曲は〜の影響を受けてる、
あ、これは〜の線を狙ったんだな、などとはわかったけれど、
20前後の若者の音としては、
音の重ね方といい、コーラスの処理といい、
そのレベルの高さにすごいなと感心した。
椎葉君に「今どきの子って、あんななん?」と尋ねたら、
まあ、そうらしい。
小さいころから、彼らの前にいくたりもの音楽があって、
どの方向に向かうか彼ら自身が模索しているんでしょう、とも。

僕は、ある時期からバンドの音がまったく聴けなくなった。
yoasobiも、緑黄色社会もどこがいいのか、まったくわからない。
わからないというのは、良いも悪いも何も感じない
ということでもある。音は別として、
つまり、言葉が届かないということなのかなぁと思う。
結局のところ、聴き続けてきた音を
繰り返し、繰り返し聴くしかないのかもしれない。
まあ、古典的な作品には、それなりの深みはあるから、
新たな発見もないわけじゃないし。
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風通信220

2025/04/02(Wed)
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“総合芸術”という言葉で、何を思い浮かべるだろう。
辞書的にいえば、
まずは、リヒャルト・ワーグナーの楽劇あたりだろうか。
“演劇”はもちろん、総合芸術です。
そこに含まれるのは、ハイカルチャーとしての
文学であるし、音楽であるし、美術であるし、
舞踏などのサブカルの要素も数多く含まれる。

アントンの芝居は、僕の趣味からけっこう劇伴に凝っていた。
最初に作品を支えている時代、地域などを考慮して、
楽曲のテーマを決める。
たとえば、『ハワード・キャッツ』だったら、
家族愛に満ちたアイルランドの音楽、
『リア王』だったら、ケルトの音楽という具合に。
『ワーニャ伯父さん』の場合は、人生の黄昏をイメージして、
中世から近代までのオーボエをメインにした室内楽。
部分的にも喜劇の『桜の園』では、
時代の変化にまるで無頓着なおばさんラネーフスカヤが
おそらく遊びまくったはずのパリ生活を彷彿とさせる
ミュゼットの類いとかです。

こうしたテーマ以外にも、
日常耳にしている楽曲で、
あ、これは舞台に使えるなぁというものがある。
そういうのを溜めておくと、経験上、いろんな芝居で使えるのです。
クィーンの❝Somebody to Love❞なんかの場合だと、
あるとき、車を走らせている途中でカーラジオから流れてきて、
ああ、これは・・・
客電が落ちて、暗転の中でイントロのハーモニーが流れてきて、
18秒後に緞帳が上がり、上がりきったところで、
明転になり、物語はじまる・・・たぶん、SF的な話がいいかもとか、
イメージが広がっていった、という具合に。
ちなみにこれは、
アントン以外の舞台で実際にそのように使った。

記憶に残っていると言えば、
『ティーンエイジャーのための演劇ワークショップ』で、
野田さんの『赤鬼』を上演したとき。
人間が本質的に持つレイシズムと、
自由への渇望を信じられない透明感で描いた傑作だから、
どういう劇伴がふさわしいだろうかと悩み、
最終的には、バッハの無伴奏チェロソナタを使った。
もちろん、第1番から第6番までのすべてが対象で、
しかも演奏者によって解釈表現が違うので、この曲はカザロスで、
この曲はシュタルケルで、この曲はマイスキーでとか、
それだけで、一か月を費やしたことを思い出す。

CDの時代だから、それができたのだと思う。

それが、いまや、サブスクの時代で、
たいていの楽曲はいくらでもネット上で聴くことができる。

To be continued
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風通信219

2025/03/29(Sat)
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『ザ・初見!』〜雨の、静かな週末〜が幕を閉じました。
たった一日の公演だったけど、
なにやかやで開演まで一年かかったんじゃないかな。
一日の公演でも、一週間の公演でも、
上演に向けて費やす労力は基本的に同じなんですね。
まあ、稽古の時間は差し引くとして。

平日、それも月曜日の公演だったにもかかわらず、
多くのお客さんを迎えられて、
そのこと自体はとても嬉しかった。
(こういう時、最近は「素直に」って言いますね?)
ありがとうございます。

後は会場費や、付帯設備費、
その他もろもろの現実がジワリと押し寄せてきます。
後処理にはおよそ一か月かかるだろう。
でも、今は、とりあえず一種の放心状態が続いている。

それにしても、閉演後の放心状態などというと、
大きな芝居をしたみたいに聞こえるかもしれないが、
たった一日の公演を打っただけであり、
観客の目に触れるのはたかだか2時間弱の舞台で、
なんちゃない、といえば言えなくもない。
でもまあ、疲れました。
寄る年波に勝てずという便利なことわざを使ってみたくなる。

中原中也の詩に、『頑是ない歌』という作品がある。

思へば遠く来たもんだ/十二の冬のあの夕べ
港の空に鳴り響いた/汽笛の湯気は今いづこ

ですね。
冒頭の一行を使って、
武田鉄矢が、歌を作っている。
きっと、この一節にインスパイアされたに違いない。
いまでは、そちらの方が有名かもしれない。
音程も定かでない武田鉄矢が歌ってもねぇ。
映画まで作られたみたいだが、困ったものだ。
(ちなみに、僕は観ていません)

軌道修正。
このごろ、この中也の一節が妙に身に染みるのです。
公演が終わって、
気づいたら、ふと口ずさんでいた。

『ザ・初見!』はなんども書いているように、
コロナ禍の中で企画された演劇スタイルです。
そういう特殊な事情だから、
本来の演劇の範疇には入らないのかもしれない。
まあ、邪道と言えば邪道である。
友人の中には、次は?という心優しき人間もいるけれど、
僕としては、これが最後かもしれないと思う。
完パケした後、制作の矢野とコーヒーを飲みながら、
・・・かもね、というと、
彼女がいつものようにニヤニヤしているのを見て、
苦いマンデリンといっしょにそっと言葉を流し込んだ。

とりあえず、アンケートを見てみるかな。
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風通信218

2025/03/05(Wed)
風通信 |
 過日、若い友人たちと食事をした。彼らが10代の頃からの付き合いだから、もう40年近い付き合いになる。歳月は思いがけず早く流れるね。秀吉じゃないけれど、「夢のまた夢」です。古来、時の流れは川の流れにたとえられることが多い。たとえば孔子に「子、在川上曰、逝者如斯夫、不舎晝夜」(=移りゆくものはこの川の流れようである。昼も夜もとどまることがない)とあり、これは時間への言及でしょう。もっとも、川の流れを見るためには川の外側にいなければならない。つまり、時間軸の上に載らない。というか、ちょっとずれたところにいる。だからこれは、老人ゆえの視点かもしれないな。年齢が若ければ川の流れの上流を見る。年齢を重ねるとどうしても下流を見てしまうものだ。僕などはうっすらと霧の向こうに河口が見えるくらいになった。
 いや、今日は、こういうことが言いたいのじゃなかった。初等教育現場の管理職にある彼らの中のひとりから聞いた話のことです。最近の保護者のクレームはAIで作られているという話があって、それに対して教職員の方もこういうクレームにはこういう反論でって、AI検索するそうな。酒の席でよくあるツマミ程度のジョークだろうけど、なにやら妙に現実感がある話だった。僕自身は友人から無料で仕えるAIについて教えてもらった記憶があるけれど、すっかり忘れているけどね。それにしても、AI真っ盛りです。なんでもかんでもAI、AI。聞くところによれば芸術作品まで創れると豪語している人もいるそうだ。年寄りの素朴な疑問だけど、そんなことが可能なんだろうか。
 クリント・イーストウッドの作品に、君も知っている『許されざる者』という作品があるよね。あれを見たとき、僕はいったい誰が「許されざる者」であるのか判断がつかなかった。まあ、もちろん、監督自身が演じた主人公もそうなんだろうけど、ジーン・ハックマンの演じた保安官だって、そうかもしれない。保安官はタウンの秩序・安寧のために不法な銃器の持ち込みを禁じ、それに違反した者を徹底していたぶる。正義の中の悪というかねぇ。しかしさ、正義のためなら何でも許されるわけじゃない。正義の反対語は悪? いやいや、それも正義ということだってある。悪とはかぎらない。絶対的な価値を疑わなくちゃいけない。この映画はそれまでの西部劇の無法者と保安官の対決の構図から逸脱していると思うんだけど、こういう人間の切り取り方って、AIに出来るんだろうか。正しさなんて、相対的なものでね、そのあわいを表現するのが芸術だと思うのですよ、僕は。一人の人間の内なるものを総体的に表現する営為とでも言おうか。見えるものだけで物事は成立しないだろう。見えないものをいかに表現するかで作品の価値が決まるんじゃないかね。『許されざる者』は、そのあたりを巧妙に仕組んだ作品なんだろうと思う。AIはどこまでいくのかねぇ。 
 さて、今回の『ザ・初見!〜雨の、静かな週末〜』には、悪人は出てこないし、善良この上ない人も出てこない。もしかしたら昨日も、今日も、そして明日も君の隣にいるであろう、誰かです。いつもながらの中高年のオジサンたちのドラマなんだけど、表象としてのドラマはある。けれど、それを支えている構造は見えない。そのあたりをどんなふうに舞台上で見せられるかがポイントです。演出としてはできるかぎり頑張ってその時間を愉しみたいものです。作家の別府君が書いたものを、その意図も意図せざることも含めて、創っていきたいと考えている。
 AIは作家が意図したことを完成されたものとして提示するのかな。でも、実は舞台では思いがけないことが起こるんだ。むかし、ある舞台で団員だった岩井がこう言ったことがある。「え? ここで客はなんで笑うの?」面白いでしょ? 要はさ、舞台は台本を仲立ちとして作品を提示する側と受容する側とで創られる共有空間だと思うんだ。それって、AIにはそもそも創れないと思うけれど、どうなんだろう。想像の領域までフォローするんだろうか。以上、AIの何たるかを知らない老人の繰り言ですが、できれば僕のエリアには入り込まないでもらいたいねぇ。
 いよいよ、公演まであと20日に迫りました。昨日、あるイベントでチラシを500枚撒きました。一人くらいは見に来てくれるかもしれない。
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風通信217

2025/02/25(Tue)
風通信 |
 少し冷たい空気の中に光の粒がきらめき、春が近いと思わせるね。今日は、勤務先が臨時休業なので、よい機会と思って今回の芝居の劇伴を探っていました。いつものように作品によってどういう劇伴にするかは台本分析と同時に進行するんだ。たとえば『リア王』だったら、古いケルト音楽から探すとか、『桜の園』だったら、ラネーフスカヤがパリで聴いていたであろうミュゼットを持ってくるとかです。前に話したと思うけど、だいたいひとつの作品につき三百曲くらいは聴きこむ。もっとも、今回はオープニングと、エンディングだけだから、物語が始まり、そしてそれが静かに閉じるようにという内的な要請に従って、一曲のみね。ところが、それだけにこれが難しい。とりあえず、欲しいのはなんでもない空間にスゥーっと入り込める音なんだよね。メロディが際立ってはいけないし、内容的に前衛的な音の連なりもまずい。こういう設定でもっとも効果的なのはやっぱりピアノ独奏だろうな。しかも、乾いた感じの曲。湿った音では作品に合わないなと。著作権があるのですでに期限が切れた楽曲でなくちゃいけないし、隣接著作権も考えて古い音源から探す。いちおう、僕の守備範囲はジャズとクラシックだから、そんな感じ(というユルユルの基準で)CDを40枚くらいピックアップする。それからユーチューブね。(いい時代になったもんだ)その手の曲を聴き続けていると関節が緩んでくるので、今日は途中でレッド・ツェッペリン(のT〜Wまで)を挟んで聴いた。いつもながら脳天がゆすぶられるね、ツェッペリンは。UKのバンドは、ビートルズもそうだけど、ロックでありながらその根っこにはトラディショナルな音楽が流れている。通奏低音のように。音楽の隠し味みたいな感じとでも言おうか。劇伴のセレクションは本番直前(あるいはリハーサル)まで続く作業だ。今回は「初見読み」の段階がリハと同じだから、そこまで。うまくマッチすればいいけど。で、とりあえず・・・・。
18世紀のアイルランドの作曲家、ジョン・フィールドのノクターンにしました。
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風通信216

2025/02/18(Tue)
風通信 |
先日、シンフォニーホールで西日本オペラ協会コンセル・ピエール主催の『こうもり』(J・シュトラウス二世)を観てきたよ。オペレッタです。君も知っているように、もともと音楽劇に関してはミュージカルも含めて完全に素人なんだけど、まあ、オペラと大差なかろうと踏んでいた。オペレッタは、遥かむかしね、福岡市民会館であった市民芸術祭記念式典で観ただけだったけど、けっこう笑えたんだ。あれは『メリー・ウイドゥ』だったかしら。その時の記憶もかすかにあるし、そんなに構えることないなと思いつつ座席に付いたわけだ。ところがだよ、想定したものと大きく違っていました。
 まず、歌曲も含めてすべて日本語版であること。それはあり得ることかもしれないけれど、なにしろね、その日本語がなんとも古い。まるで、神西清か、福田恒存の翻訳劇を観ている感じとでも言うかなぁ。中山晋平ばりの、「ラララ」とか。素人だから見当違いもあるとしても、あれどうなんだろう。しかしこうは言っても難しいよね。だって、曲があり、それに合わせて歌詞(と言っていいのかしら)があるわけでしょ。そりゃ、制約を受けますわ。しかも、元ネタもあるはずだし。新しく言葉を創る難しさはわからないわけじゃない。 
 たぶん芸術作品というのは時代の桎梏から免れない。だとしても、その本質は普遍性を持っているからこそ、僕らはシェイクスピアも近松も観られるわけで、そこにアクチュアルなリアリティを観るんだよね。シェイクスピアは時代によって何度も訳し直されているのはご存じの通り。近松だってそれは同じ。アクチュアリティでいえば、たとえば『リア王』にしたって、老人介護問題と読み替えることだって出来るよね。だからこそ使用される言葉は、昭和前期のようなものではまずいんじゃないかと思うんだ。確かに、新しい酒を古い革袋に入れるなという言葉もあるから、伝統的なオペレッタの上演としてはこれでいいのかもしれないけれどさ。先述したように音楽劇なのだから、言葉にそれほど重きが置かれているのではないかもしれない。内容もある意味スラップスティックだしね。舞台美術(大道具も含めて)や、照明は、僕の専門だから演劇との違いを色々感じたし、いろんな思いもあるんだけれど、それらは芸術領域の相違がありそうなので、多くは語らない。
 吉田拓郎が『イメージの詩』で、次のような歌詞を残している。/古い船には新しい水夫が乗り込んでいくだろう/古い船をいま動かせるのは古い水夫じゃないだろう/なぜなら古い船も新しい船のように新しい海へ出る/古い水夫は知っているのさ/新しい海の怖さを
僕が感じたことは、この歌詞のようなことなんだ。少なくとも僕より若い人たちがステージには立ち、幾分ぎこちなく演技しているわけだが、言葉を支えている人間の文化をどれほど感じているのかなぁと思っていました。いま思い出したんだけど、藤原定家は「詞は古きを慕ひ、心は新しきを求め」ると書いたけれど、それは和歌という純粋な言語芸術のことですね。
 それでもね、福岡の地でこの作品が観られるのは素晴らしいことだと思う。歌い手もあれだけの会場で歌い、それを僕らが全身で受け止められる機会は貴重な経験なのだった。それだけに、僕としては、こと言葉に関して悔やまれる。それにしても、オーケストラの演奏を生で聴けるのはいいなぁ。今回は九州交響楽団。実はね、昨年は演奏会にはどこにも行けなかったんだ。それというのも、23年にベルリン・フィルハーモニーを聴いたせいだと思う。あの音の厚みは、経験しなきゃわからないかもしれない、というのは老人の決まり文句で、不公平な言い回しだけれど、聴きこんでいたブラームスの4番シンフォニーってこんな曲だったの? と思わず自問自答したくらいだった。音の圧というか、うまく言えないけれど、しばらくはオーケストラはいいや、と思っていたんだと思う。けれどもやはりいいものです。
福岡の街は、今大きく変貌しつつある。商業演劇もいいけれど、このような舞台芸術がこれから広がっていくことを期待したいと思うよ。僕はたぶん間に合わないだろうけどさ。あ、芝居のこと・・・。また、お便りします。
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風通信215

2025/02/01(Sat)
風通信 |
 いつもそうですが、公演が決まると、こうして君に手紙を書く。今回は「ザ・初見!〜雨の、静かな週末」の2回目です。
 前回の「ザ・初見!」は、コロナ禍の終盤だった。とはいえ、社会的にはまだまだ現在形でそれは進行していたし、そのぶん僕らだけでなく、多くの劇団が演劇の公演も思うようには出来なかった。あの企画はその中で生まれたものだった。何しろ初めての試みだったし、イメージ通りにいくかどうか、当日まで試行錯誤だったことを憶えている。ただ、だからこそ、役者というより台本で勝負すべきだと考えていたんだ。その意味から台本を書いていた別府君には何度もダメ出しをした。舞台は思いがけず、よい仕上がりでお客さんは少なかったものの愉しい時間を作れたように思う。
 それから半年くらいしてだろうか、元団員の栃原が偶然山口ミチロウさんと会った時に、彼から「またやろうよと伝えてください」という伝言を伝えられた。同じく元団員の岩井からは毎年の年賀状に「初見2」はいつ?という言葉。そしてあるとき、40年来の付き合いのある照明家のマッキーからは立ちまでやれますよ、という言葉ももらった。今回企画するにあたって、「粗立ち」まで視野に入れたのは彼の言葉が大きい。まあ、色々助けてもらってます、彼には。
 それでね、今回は厳密な台本というより、緩やかな構成をひとつのコンセプトにしたいと思ったんだ。つまり、役者が生(き)のまま遊べるような本ね。僕はもともとアドリブは認めない演出方針を持っていて、多くの舞台を一緒に作った元GIGAの菊澤君から、まるで映画を作るみたいですねと言われて、ちょっとショックだったこともある。まあね、いまにして思えば、壁に手を付く角度まで注文してたもんな。それはやはり、生の舞台の醍醐味を大きく逸脱することなのだろうと思う。それやこれやで、今回の舞台は、アドリブOK。むしろ好きにやって、という方針です。だから、本もそういうつもりで最終チェックをした。別府君、ありがとう。
 それもこれも、役者さんたちを信用しているからだ。全員がおそらく20年以上舞台にかかわって来てるんじゃないかな。誰だったか、今回の出演者一覧を見て「ありゃ、座長公演ですかッ」と言ったが、それは結果論です。実は新しい人を知らないのと、やはり長年演劇に携わっている人の演ずる力は信ずるに足るし、人間的にも信が置ける人たちばかりに声をかけただけね。芝居を始めて舞台でかかわった人は千人と下らないだろう。いやぁ、これまでいろんな人がいたんだ。良い意味でも悪い意味でもとんでもない人もいたし、中央の舞台やTVでよく見かける人も。話し出せばキリがない。あたりまえだけど信じられないくらい幸せなことも地獄に落ちるような悲惨なこともあった。でも、それは今は霧の向こうにうっすら見えるだけです。それにしてもさ、みんなどこへ行ってしまったんだろうと思うことがある。思いは遠い草原に及ぶ。誰だって与えられた場所で、与えられたことに懸命に取り組んでいるとは思うけれど。そして、ときどき「俺も若い頃は素人芝居だったけど、舞台に立ったことがある」などと酒の席で話しているのかもしれないけれど。僕の場合はしかし、なにより志半ばで倒れた人の思いをつなげなくてはならないんです。11月の枯れ葉の舞うころ逝った人を忘れないためにも、劇団という組織は解散したって「アントンクルー」の名前は消せないわけでね。

また、書きます。
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風通信214

2025/01/21(Tue)
風通信 |
 昨年から準備してきた、「ザ・初見!」の概要を正式に発表できる運びになりました。HPのトップを見ていだければわかりますが、3月24日(月)にアクロスの円形ホールで上演します。前回の企画から、3年が経過しました。その間、職場が変わるなどの環境の変化もあり、また僕自身も馬齢を重ね、思いがけず多くの時間を費やしました。

 君は元気でしょうか。

 2年前のアントンメンバーの忘年会で、そろそろ何か上演しようかという話になり、前々から役者として見てみたかった、劇団HallBrathersの幸田さんに出演交渉をしたのが一年前のちょうど今頃だったかなぁ。それから少しずついつもメンバーに声掛けをしました。皆さん快く即答。その気になれば、別府君はすぐに書いてくれる作家だから今回の『静かな、雨の週末』も、仕上がりは早かった。ところが内容の精査をする僕のペースは遅々として、やっと昨年の冬のはじまりの頃、台本がほぼ完成し、上演の目途が立ったんだ。前回の公演時は、感染症は終息の気配はあったものの、その余波はベートーベンの5番シンフォニーのコーダ部分のようにしつこく残っていたので、まったく情宣もせず、HPでわずかに告知するのみだった。君にはここで(風通信)で、知らせてはいたけれどね。そのせいでもないだろうけど、観客は30名強でした。それでもとても楽しかったよ。公演が終わって、参加した役者さんたちから次もやろうよ、という声もあったくらい。だから企画としてはお客さんの多寡は別として悪くないものだったんじゃないかな。
 今回、上演するにあたって考えたことは、少しは観客を入れなきゃなということです。制作費(もちろん大事な要素です)もさることながら、声をかけた役者さんたちに、プロデューサーとしては申し訳ないと思うわけだよ。それで、チラシも作りました。どれだけ撒けるかわからないけれど。上演にあたっては、支えてくれるスタッフが仕事の多忙さや体調の関係で動けず、制作部はほとんど矢野ひとり。モギリは誰がする? という状態です。君に頼むわけにもいかないしね。でもさ、なんとかなる。実はこの状況はかなり楽しいだろうと想像してもいる。どうなるんだろうというワクワク感があるでしょ?
チラシの裏面に「ザ・初見!」とは何かと書いたのは、前回の公演を観た人がほとんどいないからです。そして、「今回の公演について」を書いたのは、同じことをするんじゃ面白くないなぁというアントンのポリシー(というほどのこともないけどさ)。いつも僕は、新しい公演ではそれまでと同じことはするまいと思ってきたことは、ここで書いたことがあるよね。だから、なんと、粗粗粗の「立ち」までやります。だから、照明も音響も入れる。もっとも、それらは気心の知れた二人にしか頼めなかったけれど。

 久しぶりだから、もっと話したいことがある。
 また、書きます。
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風通信213

2023/05/14(Sun)
風通信 |
 福岡市の総合図書館内にある映像ホール・シネラでは、毎月特集を組んで所蔵映画を上映している。福岡市のアジア戦略と相俟ってその多くはアジア映画が多いのだが、今月は「食卓」という生活文化的なテーマで日本映画も含めた作品群だ。こういう企画を待っていましたね。映画に描かれた「なになに」という企画である。ちなみに4月は『ディアスポラ・民族離反』がテーマだった。それではちょっと大きすぎる。あくまで僕の価値基準ではあるけれど。
 4日の成瀬巳喜男の『妻よ薔薇のように』を観てきた。1935年(昭和10年)の作品。いつも思うのだが、午前11時の開演というのはどうかと思うけど。休日だからというわけではない。基本的に11時か、14時なんです。まあ、それはともかく、けっこう楽しめた。台詞回しがどうしても戦前の日本映画独特の抑揚(たとえば、小津における原節子の言い回しというか)から免れてはいないのだが、映像的には、カット割りといい、オーバーラップの処理といい、象徴的なシーンの造型といい、あるかなきかの細やかなユーモアなど、とてもおよそ100年前の映画とは思えなかった。僕は愉しんだのだが、映画史をやっている人や、旧い映画に興味を持つ人は別にして、いまどきの若い人にはやはりダルいかもしれない。30人近くいた観客も年配の人が多かった。
 絢爛たる映像の溝口健二や、外連味たっぷりの黒澤明に比べると、小市民的な世界観に満ちている成瀬作品だが、それだからこそと言うべきか、妙に心に滲みる。昭和初期の働く女性の口から「月給45円だから、お金がないの」などという台詞が発せられるところなど、いかにもという感じですね。小津安二郎もいくたりかのいわゆる庶民の女性を描いたが、その手の台詞はない。東京から長野へ、家を捨てた父親を連れ戻しに行こうとするヒロイン。彼女が歩く長野の農村風景は現在もある中国の山間の村落のような風情で、映画が撮られた後10年もしないうちに世界を相手に無謀な闘いを挑んだ国であるとは信じられない。しかし彼の視座はそんなところにあるのではないんだな、きっと。家庭を捨て、別の女性と子までなして生きている父親は長野の山奥であるはずもない(だろう)砂金を取っているのだ。現実に、当時の長野県でそういうものが仕事として成立していたかどうかは知らないが、いわゆる髪結いの亭主(これは文字通り)という在り方。男性原理からすると、まあ、許しがたい男かもしれないが、あくまで成瀬の視点はそこを突こうとはしない。彼は立派な人間が好きではないのだろう。批判するのでもなく、糾弾するのでもなく、淡々と描く。その分だけやさしい。ヒロインの母親と、今父親が共にに暮らしている女性との人物造型が少しばかり類型的ではあるものの、観ている分にはそのことでかえって理解が進む。
それにしても、こういう映画はなかなか観る機会がないですね。個人的に細々ながらコレクションはしているなんだけど。戦後の20年代から30年代に撮影された作品なんかほとんど観ることができない。僕がなぜこの時代に注目するかと言えば、それは地方の時代だったからだ。上記の作品でも長野の農村風景が描かれていたが、戦後すぐの映画はその多くが地方舞台にした作品が多いのだ。『カルメン故郷に帰る』とか、『二十四の瞳』とかがすぐ思い浮かぶ。もちろん、主要都市が戦禍のために壊滅していたという事情や、地方でロケした方が食べられるという食糧事情にもよるのだろうが、戦前、戦後と続いた日本の姿がそこにはあるはずなのだ。古い日本の景観だからからいいというのではない。たしかに地方には日本人が生きていたように思う。一般の映画観ではおそらく不可能だから、せめて公共の図書館でそういった作品を上映する企画とかできないだろうか。
 ともあれ、今回の企画、『家族ゲーム』や『泥の河』(僕にとってはベストテンです)、『夫婦善哉』や、『砂の女』など優れた日本映画が上演される本企画は、個人的には大ヒットだった。
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風通信212

2022/12/30(Fri)
風通信 |
久しぶりに手紙を書きます。
 半年掛けた芝居が終わりました。一夜かぎりの奇跡のような公演だった。なにごともなくここまで来られたことは主催者として喜ばしい。いろいろあるのがつきものだから。けれど、僕は、なんだか、燃え尽きた感じです。とても疲れた。公演を終えて、こんな気持ちになることは初めてです。もちろん年齢のこともあるだろうな。でも、年齢という言葉では括れないものが身体の深いところにあるように思える。いろんなものが静かにそして着実に変化していて、その変化に身を晒す体力は僕にはもう残されていないような気がするんだよ。とても残念なことだけど。本多さんのときも、勘タンさんのときも、時間の重さに堪える体力はあった。勘タンさんの最後の公演、あの幻の『アントンクルーのワーニャ』公演のとき、僕は当日パンフにこんなことを書いている。「僕は芝居を創るたびに自分なりの目標を立て、毎回新しいことに挑戦してきたし、同じ技法は使わないようにしてきた。どんな場合にもそうだけど、その試みがうまくいったこともあれば、いかなかったこともある。でも、しないわけにはいかなかったのだ」確かに今回も同じスタンスで、初めての試みに挑戦した。そして、観劇したお客さんの評価は別にして、自分なりに思っていたことの80パーセントは達成したと思うよ。でも、だから? と空行く雲を眺めるような気持ちになってます。何だろうね。 
 と、ここまで書いて病に伏せっていました。どうやら快復したようだ。病が癒えて一週間、今日は卯月八日。この間に僕は誕生日を迎えて数値的にはひとつだけ年齢を重ねました。

2022年が終わろうとしている。
今年の3月に『大観望』を上演した後、演劇活動をしていない。舞台も見ていない、劇場でも、録画でも。新型コロナ感染症の影響ではない。ただただ、「演劇」というものから距離を置いたということだ。アントンの仲間とも3月以来話していないし、『大観望』を書いた別府とも別の要件で20分ほど言葉を交わしただけ。食肉解体業の冷凍倉庫で働くアルバイトみたいに仕事場に行き、仕事が終われば帰ってくる。さすがに家族とは食事を共にし、若干の会話もあるが、床につくまでの数時間は、ぼんやりと十月の海を眺めているように過ごすだけだった。
いつだったか、我が畏友である岩井眞實が「演劇は世界を変える力がある」ということを言ったことがある。そう信じることができると付け加えたようにも思う。いま僕は、彼の言葉に素直に心から頷くことができると同時に、結局は言葉なのではないかと思う。その意味では、音楽も世界を変えることができるはずだ。おそらく、岩井はそうありたいと願いつつ劇作家として、あるいは表現者として今も生きているだろう。僕は彼ほどの信念を持てたろうか。世界を変えようと志したろうか。劇作家として彼が書いたあの傑作『アントン・ユモレスカ』をはじめとして、僕の創作してきた舞台は残念ながら何も残せていないと思うし、一ミリの変化もなかった。ただ「時」が風のように吹きすぎただけだ。それはひとえに演出家としての僕の力のなさなのだと思う。それを実感した半年だった。俺はいったい何をしてきたのだと吹き行く風に問いたいくらいだ。僕のレゾンレートルは演劇しかなかったのに、である。定家の「見しはみな夢のただちにまがひつつ昔は遠く人はかへらず」という歌が、身に沁みる年の瀬である。
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風通信211

2022/03/06(Sun)
風通信 |
 事態が改善されたとは思わないけれど、ともあれ「蔓延防止措置」が解除されたのはなによりだった。いよいよ公演前一週間となった。通常ならこの時期、ほとんど毎日、返し稽古や、スタッフワークや諸々の打ち合わせで休む暇はないのだが、今回は10月の海のように、はじまりの予兆に満ちた穏やかな日々である。当日配布するパンフレット、チケットのデザインも完成し、あとはプリントアウトするだけだ。一夜かぎりの公演だし、情宣もしていないので集客は端から諦めている。だから印刷枚数も少なく、自宅のプリンターでできるだろうと、踏んでいる。
 今回の企画は昨年の7月頃から始まった。その時点でパワーポイントを使って初見の台本を観客と共有するなどの作品のコンセプトや実施の際の舞台の構想はすべて僕の頭の中で完成し、その上で別府に台本をオーダーした記憶がある。三週間くらいで第一稿が上がり、そのまま寝かせた。そして、制作スタッフの矢野と川中に今回の構想を伝え、相談したら「やりましょう!」という返事をもらったので、台本の修正に入った。彼ら二人が賛成してくれないと公演の実施は不可能なのだ。二稿、三稿(四稿までいったかな)と重ねて、年が明けた1月に決定稿の完成。制作スタッフと台本の内容について詳細な確認を行い、感染症の蔓延を片目で見ながら2月にスタッフだけで読み合わせをした。尺を取るためである。それが物語であるためにはある程度の長さは必要だが、今回の場合、長すぎても処理が難しい。30分から40分、別府にはそう頼んでおいた。おおむね予定通りでした。別府君ありがとう。内容的に倫理違反とかないかなど改めて確認して、準備が整った。もちろん、初見になるので台本へのフリガナを付けるなどの細かな作業は残っているにしても。そして、一番重要なのは、台本の分析。この一週間は読書も映画も・・・と、そうはいかないんだよなぁ。追い詰められると、ついついソッチやアッチに逃げてしまうのは、毎度のことである。高校生の時から試験前になると急に本を読みたくなったりした、あれです。たぶんこれは治らない病。昨日、ショーン・バイセルの『ブックセラーズ・ダイアリー』を読み終えたばかりなのに。総合図書館では予約20人待ちの本だけど、僕は同じ系統の本ならジェレミー・マーサーの『シェイクスピア&カンパニー書店の優しき日々』の方が面白かった。それにしても、今月はなにかと忙しい。先週は荻須高徳の展覧会を見に広島へ一泊で行ってきたし。いつもながら時間が停止したような錯覚にとらわれる「ひろしま美術館」。作品の前に不粋なラインなどもなく、作品に10センチくらい顔を近づけて観てきた。そのタッチや息遣いまで感じられる。彼のまとまった作品を観るのは久しぶりだった。鹿島 茂のパリ愛に満ちた一連の本をここ2〜3年読んでいたので、以前よりは描かれた対象、場所を捉えることができたような、なんだか奇妙な既視感である。古くは山田 稔、最近では堀江敏幸などパリに魅せられた文人は多いですね。人肌の感じられる魅力的な都市なんだろうな。月末は、佐賀で、辻井伸行のラフマニノフ。コロナ以前の、3年くらい前のサントリーホール以来だ。
 まだ3回目のワクチン接種は終わっていないのに、こういう状況はどうよ、と突っ込まれそうだからここで止めよう。3回目は4月1日。もちろんエイプリルフールではない。
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風通信210

2022/02/18(Fri)
風通信 |
 前回の公演もコロナ禍の中だったけれど、今ほど切実感はなかったように思う。もう、2年になるなぁ。・・・という情況で何か方法がないかという模索した。そのあげくが今回の上演スタイル。時間をかけてじっくり稽古を重ねて演じるわけではない。ただ、こういう形態もありかなとはひそかに思う。今、僕らを取り巻いている社会の状況を考えて、あえて情宣は最小限に留めた。それでも、簡単なフラーヤーくらいは作ろうかと。今日あたりから、一部で出回っているだろう。でも、たぶん誰も眼にしないような気もするので、そこに書かれている文言をここに書いておきたい。

 コロナ禍の中、生の舞台芸術としての演劇を模索しています。そのひとつとして、今回の舞台を創ります。福岡で長年芝居に取り組んで来た旧知の友人たちの協力の下に。役者さんはまず、文字通り「初見」で本読み。その中でサブテキストや表現を探ります。約30分程度のインターバルの後、同作品を改めて読みます。ここでリーディング公演になります。役者さんのプレッシャーは大きいのですが、彼らの表現の力をじ信じたいと思います。舞台の内容は、だから当日まで封印。ただ、中高年の男性五人の会話劇で、面白い舞台に仕上がると思います。平日になりますが、是非、劇場まで足をお運び下さい。

 と書いたものの、実は役者だけではない。演出することになる演出家もかなりのプレッシャーなのだ。だって、稽古場を見せるようなもんだし。それって、どうよ? という感じです。
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風通信209

2022/02/12(Sat)
風通信 |
 たしか40代の頃だったと思うけれど、福岡市の文化芸術財団から依頼されて「10代の演劇ワークショップ」を担当したことがある。参加者の母親が、それまで人前でほとんど話すことのなかった子どもがそのワークショップをきっかけとして、笑い、声を出すようになったので、どんなレッスンをしているのか知りたいと見学に来たことが記憶にある。「演劇の力」を感じた日々だった。ワークショップを企画するに当たって、半年をかけて文献やネットを検索し、さまざまなレッスンを考案した。おそらく20数種類のレッスンを考案したんじゃなかったかなぁ。そののち使う機会もなく、その時の資料はどこかにあるはずなんだけれど、所在は不明だ。

 先日、若い友人からメールをもらった。大学を卒業するにあたって、就職のことでモヤモヤ悩んでいる内容だった。なにか言葉を掛けてあげたいと思った。そして、突然ワークショップのレッスンのひとつを思い出したのだ。そのレッスンが「Calling・You」です。僕はオリジナリティがないから、たぶん何かをヒントにして考案したんだろうけど、こういうレッスンです。

 参加者の中から一人選ぶ。いちおうAとしておきますが、残りの参加者を仮にB〜Zとして、B〜ZをAから20メートルほどの距離を空けさせ、その離れた場に、Aに対して背中を向けた状態で、いわゆる体操座りでランダムに座らせる。定まったところで、AにB〜Zの誰かを選んで、声をかけなさいと指示する。ルールは名前を呼んではいけない、親密な(つまり、二人だけしかわからない)話をしてはいけない、くらいだったか。声だけで、呼びかけるだけで。それがルール。それを繰り返す。一方、B〜Zは自分に声が届いたと思ったら、そっと手を上げなさいと言っておく。一回目。誰ひとり手を上げない。続けさせる。Aはあれこれ工夫し始める。でも、これとわかる言葉は禁じられているので、とにかく「あなた! 君! ねぇ、こっち向いて!」・・・エトセトラ。誰も振り向かない。ここでストップ。B〜Zの向きをAに向かわせる。さて、Aが誰に声をかけたのかが発表される。Fだったとしよう。そこで、Fに聞くわけです。「呼んでたんだよ、聞こえなかった?」すると、Fは、「いや、なんだか、自分を飛び越えて、もっと、後ろの人を呼んでいるような気がした」という答え。2回目。同じです。今度はR。Rは「隣の人を呼んでいると思った」と言う。3回目。Q。すると、Gが手を上げる。違うんですね。「違うなぁ〜」と声をかける。そういうことを何回か繰り返しているうちに、偶然かもしれないけれどB〜Zの中の一人が手を上げる。これは正解です。そこで、すかさず、ストップ。「聞こえたの?」と聞くと、「たぶん、私に向かって声をかけたんだろうな、と思った」と答える。つまり、声のベクトルを探るレッスンですね。誰に向かって台詞を言うのか、どの方向に声を飛ばすのか、ということを体験するのです。

 僕が今日、思い出したのはこの「Calling・You」の中の「calling」という概念だったんです。これはもちろん、callの名詞形で、呼び出すこと。でも、辞書を繙くと「天職」という意味があるのだ。

 仕事というのは、自分にどんな適性があるのか、自分が何をしたいのか、という「自分が」という考えを捨てたところから始まると思う。自分の志向することにプライオリティを与える。それはそれで当然と言えば当然で、否定はしないけれど、ここはひとつ自分から離れてみることが大事なんじゃないかと思うのだ。そもそも、与えられた条件の中で、自分にできる最高のパフォーマンスを発揮するべく仕事をする、というのが仕事の真の在り方だと思う。だから、極論を言えば何でもいいんだな、きっと。言葉は悪いけど、「成り行き」で仕事を始めても、その中で自分の適性を発見していく旅だと考えるといいかもしれない。それにしても、我ながら「成り行き」って言葉、いいですね。正式な離職率は知らないけれど、けっこう学校を卒業して初めての就職先を辞める人が多いと聞く。まあ、理由は人の数に対応するだろうし、理不尽なこともあるので、わからないでもないけれど、あれって結局自分が考えていたイメージと仕事が合わないことが理由としては多いんじゃなだろうか。こんなはずじゃなかった、とかね。それって、僕に言わせれば逆でね。仕事に自分を合わせるんです。そういう努力することが仕事をするということなんだと思うのですな。そして、たぶん、ここが重要なんだけど、「仕事がそれを求める」。つまり、この仕事そのものが就職した人間に求めること、これが「Calling」ね。やっと繋がった。だから、たぶん、それほど深く考えないで、何でもいいはずだ。問題はその先にあります。そういう意味では、「結婚」と同じ。結婚した後、幸福になるか、不幸になるか、それは雲が西から東に流れて行くような自然の在り方ではない。自分の力で構築するものです。仕事もおんなじなんだな。

 僕は、自分が就活というものをしたことがないので、(あ、つまり成り行きで仕事始めたから)就職先を見つけることに対してのバリアーはなかった。今のスケールでいうと規格外の、どうしようもない学生生活だったから、まともな就職なんて考えられなかったわけだ。でも、まあ、なんとかなるかというスタンスでした。これまでそれで生きてきたし、残り少ないこれからもそうだろう。だから、こんなことを書いても役には立ちそうもないけど。
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風通信208

2022/02/05(Sat)
風通信 |
 オミクロン株の脅威がひしひしと迫り来る中、昨日、完成した台本の読み合わせをスタッフで行った。え? 今頃? とお思いでしょうが、これは今回のタイトル「ザ・初見!」が意味する一連の流れです。「ザ・初見!」とは言ってみれば、メタタイトルになるんですね。正式なタイトルは当日まで不明。(もちろんスタッフは知ってます)役者にも知らせないところが味噌、醤油です。
 読み合わせでは、尺を測ることが第一の目標。ほぼ予定したとおりで、まずは祝着。あとは台本上の問題点を各々指摘。若干の修正をすると言うことで、これも難なくパス。題材はなんであれ、それが芸術文化であればアクチュアルでなければならない。その意味からも、スタッフの了解は取れた。
 どういう感じで参加するかは、今のところ不明だが、できたら生演奏があった方がいいなぁと考えて、アマチュアのギタリストに参加してもらったんだが、それもイメージに合った。開演時間とか、タイムテーブルとか、ザックリとした打ち合わせを制作として、荒々しい土の塊に、どうやら目鼻が付いた顔が見えてきたような気がする。こういう作業は通例だと1年前くらいから始めるものだが、今回は1ヶ月前。これはもう、拙速を通り過ぎて、「遅かりし由良之助」(仮名手本忠臣蔵)だけれど、今回に限っては、それもこれも順当なる進行具合です。近々、予約システムも稼働する予定だ。
 出演する役者さんを知っている人ならわかると思うが、若くて40代。その他は50代60代の中高年の男性ばかりです。さて、どういう芝居になるんだろう。年齢に見合った想定の芝居です。・・・徐々に、お知らせしていきます、あ、これを読んでいる人がいればの話だけど。
 冒頭に書いたように、新型コロナ感染症(オミクロン株)の感染者数が驚異的な数字を示しているけれど、役者さんが元気で居るかぎり、公演は中止になりません。
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風通信207

2022/01/17(Mon)
風通信 |
 1月10日は成人の日。白亜紀みたいな昔のことだから覚えていないけれど、いわゆる式典には行ってない。それはもう間違いのないことだ。当時は儀式的なことは完璧に拒否していた頃だったしね。でも今日は成人式の話ではありません。
 10日の午後、東京FMの「村上RADIO」で、「成人の日スペシャル〜スタン・ゲッツ音楽を生きる」という特別プログラムが組まれた。チャーリー・パーカーはもう、神様みたいなもんだけど、その対極にいるようなレスター・ヤングが好きな僕としては、当然スタン・ゲッツも好きで、特にヨーロッパでの録音は愛聴盤だった。番組で語られた内容には目新しいトピックはなく、だいたいが『Stan Getz:A Life in Jazz』に書いてあるものだった。それでも、ここではひとつだけ、語られた、これはという彼のエピソードを紹介したい。
 日本でいう中学生の時代にサックスを中古で手に入れたスタン・ゲッツはめきめき腕を上げて、高校に入った15、6歳で、すぐにプロになった。彼にはいくつかの特別な才能があったからだと言われている。そのひとつは、オーボエからクラリネット、アルトサックス、バリトンサックスまで、リード楽器は何でも吹けてしまうこと。そのうえ歌心があって音感がいいから淀みなくもぎたてスムージーみたいに吹けること。そして、これが重要なんだけど、写真能力の持ち主だったということだそうだ。写真能力というのは、楽譜をぱっと見て、初見で暗記してしまう能力のことです。才能があるということは、そういうことですね。『アマデウス』の中で、サリエリの楽曲を聞いた直後にそれを再現した神童モーツァルトのエピソードを描いたピーター・シェーファーの戯曲を思い出す。もっとも、モーツァルトの伝記本を読むと椅子から転げ落ちそうなエピソード満載なので彼は別格だろうけど。言うまでもないことだが、だからこそ、ミドルネームがアマデウス(=神に愛されし者)であっても不思議じゃないんだよね、きっと。つまり、それはほんとに特別な才能なんだな。この類いの才能をもうひとつ。青柳いづみこさんの本を読んでたら、20世紀初頭にフランスにいたジャーヌ・バトリというメゾ・ソプラノ歌手の話があった。彼女はラベルの歌曲集『シェラザード』を代役として歌ったということだ。さて、ここからが重要なんです。決まっていた歌手の急な病いのために急遽呼び出された彼女が、代役としてステージに立つまでに残された時間は2時間。つまり開演の2時間前に彼女は初めて楽譜をみたそうな。つまり、初見です。作曲者のラベルはきっかり1時間半の指導だけだったと。そしてバトリはオペラ・コミック座の舞台で、まるで自分のおなじみの曲のように歌ったらしい。感激したラベルは「感嘆すべき音楽家ジャーヌ・バトリさまへ。1904年10月12日の離れ業への感謝の念をこめて」と楽譜の上に献辞を書きつけたという。いつの世にも信じがたい才能を持つ人はいるものだ。
 しかし、ひとくちに才能と言っても、さまざま。音楽は矢のようにストレートに心の中に突き刺さり、一瞬で魂の次元を変えてしまうものだから、その創造もかくあらんと思うけど、演劇の舞台はね、そうはいかない。今回のプロデュース公演のタイトルは「ザ・初見!」です。そもそも芝居と音楽と同列には語れないし、上記のエピソードと比ぶべくもないのですが、今回の試みは、まさに、タイトル通り。どういう進行かって? もうちょっと待ってね。
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風通信206

2022/01/09(Sun)
風通信 |
 コロナウイルス感染症第6波がついに始まった年明けです。
 こういう時期だから多くの人が映画館は回避しがちだろうけど、幸いなことに最近はネットフリックスとかアマゾンプライムとか、ネットでの映画環境が充実してきた。ちなみに僕はWOWOWを契約しているので、WOWOWシネマをよく利用する。わりとなんでも見る方です。それでも、食わず嫌いのホラーは見ないか。それと、日本のアイドル系のラブストーリー。一生懸命演っているのは理解できるんだけど、典型的な表層芸術で、要するにそれだけで・・・、しかし、つまり、以前は少しは見ていたわけだ。同じく以前見ていて最近見なくなったのが、韓国映画。別に僕の中でサラサラした血が流れているわけじゃないけれど、見ているうちに、身体中の血がドロドロしてくる感じがして辛くなる。アジア映画では、やっぱりいくつかの中国映画が面白い。台湾の映画もなぜかパス。欧米の映画では、イギリスの映画が僕の一押しで、次ぎにフランス。スカンジナビア系の映画も沁みるときがある。ドイツ映画はメロドラマもコメディも波長が合わない。今さら比較論でもないが、印象主義芸術観と表現主義芸術観の違いというところだろうか。こうして国民国家の名前を付けていうとなんだかバイアスがかかっちゃうけど、やはりそれぞれの国に底流するものはありそうな気がする。それはそれとして、僕が最初に触れたのはやはりアメリカ映画だった。ハリウッド映画はプロットの予想がつくことも多いが、B級まで含めると層が厚いと思う。
 ところで、昨年の後半に見た『スカイライン』という映画で興味深い、というか、かなり衝撃的な発見をした。この映画は3部作らしい。(いまのところ第1作で挫折)2〜3部は面白いかもしれません。もっとも、『Xメン』という3部まで作られた映画の3作目で、登場人物が「3作目ってだいたいにおいて見る価値がないのよね」という自虐ギャグを言っているから、そんなものだろうと思う。『スカイライン』は映画のジャンルとしてはエイリアンものです。ただひたすらエイリアン星人がUFOキャッチャーみたいに地球人を母艦に吸い上げるだけのワンシュチエーションの話で、終わりの方になんか地球防衛軍みたいな戦闘機が登場して、その母艦やエイリアンを攻撃するという作品。ちなみにリドリー・スコットの『エイリアン』みたいな造型の象徴性はない。マンションの一室からその情景を見ている人物がいて、彼が視線を窓外に送る直前に横顔のワンカットがある。その背後に壁が見えるのだが、そこにポスターがさりげなく貼られているのがわかる。たぶん、3秒から5秒ぐらいのカット。そのポスターは時代はいつのものかわからないのだけれど、そこにははっきりと「神風」という字が読み取れるのだ。そして、次のカットはエイリアンの母艦に突っ込む地球防衛軍の戦闘機というシーンが続く。まるでアメリカ軍の航空母艦に体当たりする日本軍の戦闘機の映像をクリアーなカラーフィルムで見る感じとでも言おうか。いやぁ、太平洋戦争開戦後、80年という時間が経過したにもかかわらず、「神風特攻隊」というのはアメリカ人の深層には刻み込まれているのですね。最近読んだコラゲッサン・ボイルの小説にも「カミカゼ」という語があったし。日本という国家が、そういうシステムを容易に作り出す国家だということは忘れてはならないのだろうな。昨年再放送されたNHKの「新・映像の世紀」の21回は「銃後の太平洋戦争」だったが、このシステムの異常さがあらゆるシーンで延々と続いている。なんだか、遠い昔の話ではないような気がした。
 プロデュース公演の第2弾「ザ・初見!」の公演日が決まりました。3月14日です。一夜限りの公演。コロナの影響がないことを祈るばかり。
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風通信205

2021/12/21(Tue)
風通信 |
ほぅと思わず口から出てきそうなニュースを知った。

 高等学校の教科書の話だ。文部科学省が12月8日に、来年4月から全国の学校で使われる教科書の採択結果を公表した。実社会で必要な国語の知識や技能を身に付けるために、新たに必修科目となる「現代の国語」という教科書。文科省はこの科目で扱う題材を評論や新聞記事などの「論理的・実用的な文章」とし、小説など文学的な文章は除くと説明していた。それを受けて各出版社は小説教材を入れないものをつくったらしい。検定合格は17冊。その中で、唯一、小説を掲載した第一学習社のものが、占有率16.9%でトップとなったというのである。

 第一学習社は、「現代の国語」に、芥川龍之介の「羅生門」、夏目漱石の「夢十夜」など小説5作品を載せ、その掲載の理由について、「教育現場から、現代の国語の授業で小説を扱いたいとの強い要望が多く聞かれた」と説明しているそうだ。現場の教員が小説を扱いたいというのはわかる気がする。青春時代には多くの文学作品を読んできた人たちだろうし、いわゆる「国語」という教科をなんとなくかもしれないが好きだったろうから。もっとも、理系科目がまったく手に余って国語教員となったという教師を僕は知っている。僕の中学校の先生だった。ま、それはいい。小説を扱いたいとアンケートに答えた教師たちが「羅生門」や「城の崎にて」を読んで深い感動を味わったかどうかはわからない。僕なんかは専門外だから、今さら「羅生門」でもないだろうとは思うが、現場の先生方はそうでもないのだろう。その他には、村上春樹の「鏡」、志賀直哉の「城も崎にて」がラインナップされている。個人的には村上春樹は、まあ、彼は世界的な文学者だからおくにしても「羅生門」と同様に「城之崎にて」はないだろうと思う。優れた作品であることは認めようか。でもつまらない。あれって、いわゆる私小説なのかなぁ。その小説を通して何を教えるというのだろう。たぶん、教員が読むであろうマニュアルにはいろいろ書いてあるんだろうけど。

 一方、文科省が上記のような通達をしたのは実は大学改革と軌を一にしているのじゃないだろうか。つまり大学教育から一般教養を除外し、実学志向を進めているということと同じ発想だと思う。高校生対象の場合は、社会人になって契約書を読んだり、報告書が書けなかったら仕事にならないねという発想かな。産業界からの要請もあるに違いない。プロ野球でよく聞かれる言葉なんだけど、勝ち抜くためには即戦力になる人間が必要だ、とかね。組織が必要とする以外の余計な知識や、人間の実存的な意味を考察するような知性はいらないということなんだろう。それをあえて言えば企業の専門性ということになろうか。ここでね、ひとつの問題が生じるような気がします。専門性が現実社会の中で巧く働くためには、自己の専門性だけを学べば事足りるわけではない。他分野の専門性と編み込まなければならないということだ。それがないと自分の専門性は全うされないのです、たぶん。同時にまた、専門性の持つ陥穽に陥らないために、自己の専門性を相対化しなければならないことも必要だろう。そこで決定的な作用を及ぼすのが想像力というものだ。そして、想像力の多くを育むのが文学、芸術などの営為だと思う。芥川龍之介だったか、「見えるものは見えないものに繋がっている」という言葉があって、見えないもの、つまり不在なものへの心のたなびきみたいなものを僕らは持たねばならないような気がする。だとすれば、高校の現場で文学作品を読む機会を除外するというのは、けっこう問題だと思うのです。

 公演の日程が3月にずれ込みそうです。今日、制作メンバーと軽く会食。そういう話になった。コロナが完全終息しているといいけれど。
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風通信204

2021/11/21(Sun)
風通信 |
 僕がクラシック音楽をちゃんと聴き始めたのは、たぶん高校生の時だったと思う。学校をサボってか、放課後だったか、博多区の綱場町にあったクラシック喫茶シャコンヌ≠ノ通ったものだ。珈琲一杯で何時間も居座ることができた。そこで、バッハもモーツァルトも、ベートーベンも知った。中学生の時はビートルズばかりで、のちに甲斐バンドで活躍するM君からレコードを借り、オープンリールのテープレコーダーに録音しては勉強しながら聞いてた。レコードは高くてとても買えなかったわけだ。テープレコーダーにしても叔父から譲り受けたものだった。ちなみにその叔父からもらったレコードの何枚かは記憶にある。クラシックばかりだった。でも、それらは名曲の抜粋で完全なものは聞いたことはなかった。
 シャコンヌ≠ナ聞き始めて、ときどきTVでNHK交響楽団の演奏を視聴するようになった。指揮者という存在を意識したのもその時だったように思う。最初に知った指揮者は岩城宏之だった。そして、ウォフガング・サバリッシュ。ロブロ・フォン・マタチッチも、オットマール・スウィトナーも知らなかった。ちなみに岩城宏之は1967年から2006年まで正指揮者。ウォルフガング・サバリッシュにいたっては、1967年から2013年まで40年にわたって棒を振り続けている。まさに一緒に成長したというか、N響を育てたというか、そんな感じですね。そのサバリッシュの最後の来日N響公演は、彼が81歳の時の2004年の11月13日だった。プログラムはベートーベンの第7交響曲。その日、こういう話が伝わっている。
 NHKホールでの最終リハーサルのあと、彼はいつものようにこう言ったそうだ。「今日の演奏会うまくいくといいね。この一ヶ月間のプログラムを一緒に演奏してくれてありがとう。また、次ぎ来る時ね」しかし、その日はそう言ったあと、「バイバイ」と言い足したという。それを聞き取れた団員も聞き取れなかった団員も「いま、何だったの?」身近な人に確認し合ったそうだ。学校の教室で教員がとても大事なことを言ったらしいとわかり、それを聞き漏らした生徒が互いに確認し合うような小さいけれど広い範囲のざわめきだったろう。晩年のサバリッシュは老齢のために椅子に座って指揮をしていて、だから振りも少し小さくなっていたそうだ。けれども、この日の本番は違って大きく振っている。何が起こったのか。団員のひとりひとりはその指揮ぶりにつられて、そして突然理解したのだろう、全員が前傾姿勢で演奏しはじめたのだ。その日の最終楽章の演奏を見ると、もう、すごいんですね。特に弦の楽団員。バイオリンは上半身が揺れ、楽器が上下左右に動くし、チェロは前後に揺れる。しかもそれが全員まったく同じ動きなのだ。きっと分かったんだよね。
 一般に美術は空間の芸術と言われるのに対して、音楽は時間の芸術と言われる。それはある一面はついているけど、そうとは言い切れないと思う。たしかに、一瞬一瞬、音は川のように流れ、消えていく。けれど、魂の共振とでもいうしかない空間があの場にはあったように感じる。言葉には結ばれない思いが空間に満ちているとでも言ったら分かってもらえるだろうか。集団の芸術の素晴らしさはこんなところにもある。
僕らが作る舞台もそうでありたい。

 2月のプロデュース公演の役者が決定した。思いの通じる役者さんたちに声をかけたつもりだ。いい舞台を創りたいものです。
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風通信203

2021/10/18(Mon)
風通信 |
コロナも収束の兆しが見えてきましたが、まだまだ余談は許さない状況です。すごくありふれた言い方だけど、お元気ですか? ワクチン接種は済みましたか? 
この情況の中、福岡で緊急事態宣言が解除された日に、プロデュース公演の企画会議をしました。メンバーは僕と制作スタッフ。とりあえず、動き出したわけです。
今、部屋ではNHK交響楽団1814回の定期公演の様子が大きい画面で映っています。広上淳一が愉しそうに「ドボ8」を振ってます。本当に愉しそうだ。なにより自分が愉しそうなんだよね。これは大事なことです。まず、自分が愉しいと思うこと。そんなふうに舞台を創っていきたい。別府の台本を読み込んでいます。急がなきゃと分かっているんだけど、なかなか・・・台本分析の時間が・・・これ以上書くと、言い訳になりそうだから、今日はここまで。
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風通信202

2020/10/23(Fri)
風通信 |
長い準備期間を経た公演が終わったよ。君はついに顔を見せなかったけど。想いが届かなかったかな。それはもう、仕方のないことです。

公演が終わるとたいていは一週間はボーッとして過ごすんだけど、今回はそうもいかない。制作から支払いの件でさっそくLINEが入るわけで。いつものアントンのほぼ3分の1のオーディエンスでさ。チケットは完売状態でまずまずだったけれど、会場が円形ホールという、そもそもが狭い会場だったしね。
つまんなかったという人もいれば、面白かったという人もいる。それは気にならない。僕が作りたかった作品を作って、制作は身を挺して動いてくれたしね。作家は美しい言葉で感謝の言葉を残してくれたし、バンドチームは晴れ晴れした顔でバラシの後、小屋を後にした。きっと楽しかったんじゃないかな。そして、もちろん、お客さんの何人かはいい時間を過ごしたと思ってくれたと信じられたしね。バンドリーダーの椎葉さんには、「楽しくやろうよ、あなたたちが楽しくやれば、お客さんも楽しいはずだから。こんな時期だからこそ、そういう時間を作ろうよ」と言ってて、それはおおむね実現したんじゃないかと思うんだ。越智さんのマリンバは素晴らしかったし、栗林さんのボーカルには心が癒やされた人が多かったはずだ。
コロナ禍の時期だからこそ、知恵を絞って装置のN君も舞台を考えてくれたし、ライブ感に拘わり、重要なアドバイスや、フォローをしてくれた照明のA君もいつも通り美しい明かりを作ってくれたし。今回はワガママばかり言って困らせた音響のT嬢には、毎度のことながらいつもの笑顔で癒やされました。やってよかったんじゃないかと思う。そして、この文章を読んでくれるいくたりかのあなたにも、感謝します。
芝居そのものは、なるほどライブでした。1回目と2回目は違うんだよなぁ〜、これが。そこのことも含めて、やっぱり空気感は映画やTVなどの映像表現とは違うと思った次第。ま、僕が今さら言うことじゃないけれど。
コロナ禍のために、関係者の人数を絞ったせいで、僕が転換をすることになった。公演のタイトル入りの黒のTシャツに、黒のマスク、黒のキャップ。裏黒の足袋。サングラスまでしようかと思ったんだけど、それはあんまりだし、だいいち舞台でつまずいたらかえってみっともないしで、それはしなかったけれど、初日が終わって制作のKが、間違ったでしょう・・・。かれはボソッと言ってました。はい。だって、始めてで、僕なりに緊張したわけです。

これから数週間はいろいろ頭を悩ませて大変だけど、とりあえず、今日までは気分はいい。たった一本のメールからはじまった今回の公演だった。君に話したいことがたくさんある。
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